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2015年3月

2015年3月31日 (火)

第751段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(77)~映画のイメージがもたらしたもの

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の行刑資料館にいる。

 『網走刑務所は、凶悪犯が送られる劣悪な環境の刑務所?』というパネルがある。
見てみよう。

Imgp7803r

『かつて脱獄が一番困難な刑務所といわれた網走刑務所。昭和の時代、網走刑務所
は凶悪犯が送られる劣悪な環境の刑務所という少し時代錯誤的なイメージが定着して
いました。

それゆえ映画『網走番外地』シリーズの舞台にもなり、この映画のヒットによってさらに
そのイメージが強化されました。

昭和43(1968)年、網走刑務所が長期収容者の施設から懲役8年未満のB級施設に変わ
ってからも、このイメージは変わることなく人々の中に受け継がれていきました。』

確かにそうですね。
映画に描かれると、それが実際と違っていても信じてしまう、ということはありますよね。
高倉健さんの代表作の一つですね。『網走番外地』は。

(つづく)


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2015年3月30日 (月)

第750段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(76)~日本一の収穫

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の行刑資料館にいる。

 『日本一の収穫高を誇る網走刑務所』というパネルがある。

Imgp7793r

『アメリカの近代的農業を
導入して高い収穫高を実現!
バターやミルクも?

農作物供給基地としての役割を担うため、明治25(1892)年から北海道大学農学部
卒業の湯浅純彦氏を採用し本所農場の他、二見、越歳(こしとし)、切通(きりとおし)
農場を次々と開墾し、新しい農法を導入しました。その結果、日本一の収穫高を誇る
ようになります。

馬鈴しょや南瓜(かぼちゃ)、そば、麦類等の比較的簡単にできる作物以外にも、乳牛
を買い付けてバターや牛乳をつくったり、寒冷地では難しい水稲栽培や果樹栽培にも
挑戦しました。収穫高の多い南瓜は毎日3食食べさせられるので、収容者の顔が黄色
くなったという逸話も残されています。』

自分の食いぶちを自分で作っていた、という感じですね。よくミカンを食べ過ぎると、
肌が黄色くなる、なんて聞きますが、南瓜もそうなんでしょうか…?

(つづく)


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2015年3月29日 (日)

第749段:2015年GW~オーシャン東九フェリー利用によるツーリング計画(2)

 さて。
 GWまで1ヶ月。
 今年は、瀬戸内海沿いを四国側、本州側双方からツーリングする計画をしている。

 そこで、フェリーの予約だ。
 オーシャン東九フェリーの予約は1ヶ月前からできる。
 今日(3/29)は、4/29の1ヶ月前だ。
 今年のGWは4/30と5/1に有給休暇を使って休めば、4/29~5/6まで連続8日間休む
ことができる。

 前回の

第719段:2015年GW~オーシャン東九フェリー利用によるツーリング計画(1)

でも書いた通り、昨年まではできなかったインターネット上での予約が、
WILLER TRAVELサイトを通じてできるようになった。

以前は、電話でしか予約できなかったから、今年のように1ヶ月前が日曜日の場合、
翌月曜日にならないと予約できなかったが、インターネットでは曜日に関係なく、
予約できるようになった。

ということで、WILLER TRAVELに登録無料の一般会員にて会員登録をした後、
予約を行った。

結論から言うと、

4/29 東京港 19:30発 → 4/30 徳島港 13:20着 
カジュアルフェリー(2等寝台)+750cc以下バイク

の予約をGETできた(^^)。

今日の10:30頃に予約をしたのだけど、この時点で、バイクの空きが7台だった。
今(19:00)確認すると、バイクの空きは0。

うーん、みんな考えることは一緒のようだ。

ところで。
つい先日、運行スケジュールが更新されたようで、5月分の運行スケジュールが明らか
になった。

http://www.otf.jp/schedule/

第719段:2015年GW~オーシャン東九フェリー利用によるツーリング計画(1)
で心配をした5/6東京港着のフェリーがないのではないか、という懸念があったのだが、
その懸念はなくなった。

スタンダードフェリーの『おーしゃんうえすと』が5/2に北九州(新門司港)に入港した後、
5/4まで出港しない。
5/4に出港した『おーしゃんうえすと』は、5/5に徳島、5/6に東京に到着する。
このフェリーに乗れば、ぎりぎりまでツーリングできるということになる。

問題は、復路のフェリーの予約がうまくとれるか、だ。

(つづく)


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2015年3月28日 (土)

第748段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(75)~戦時下の網走刑務所

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の行刑資料館にいる。

 『戦時下の網走刑務所』というパネルがあるので、見てみよう。

Imgp7798r

Imgp7799r

『飛行場建設で大活躍!
網走刑務所のエリート「熊部隊」

昭和の初頭、戦時下の日本、網走刑務所の受刑者たちは飛行場建設において大活
躍します。海軍航空隊美幌飛行場、女満別飛行場に続き、東洋一といわれたテニヤン
飛行場の建設に携わりました。

技術に優れ、体力もあった網走刑務所の受刑者たちは飛行場建設のエリートとして
知られていました。テニヤン飛行場建設のために全国から集められた365名の受刑者
のうち、網走の受刑者が136名いたことが、期待の度合いを物語っているといえます。

テニヤンでは通称「熊部隊」といわれた網走刑務所の部隊が最も手慣れていて、特に
ダイナマイトによる爆破作業と整地作業は抜群だったと伝えられています。

しかし、戦局が悪化すると、網走刑務所の受刑者部隊も戦禍を被り、アメリカ軍に接収
されたテニヤン飛行場からは、原子爆弾を搭載した「エノラ・ゲイ」が広島に向かって
飛び立つことになってしまいます。』


この内容で驚きなことが2点。
一つは、受刑者が発破作業に従事していたということ。
受刑者がダイナマイトを使っていたというのは、何とも。。。

もう一つは、せっかく作ったテニヤン飛行場から「エノラ・ゲイ」が出撃したということ。
何てことでしょうね。

(つづく)


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2015年3月27日 (金)

第747段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(74)~農園刑務所

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の行刑資料館にいる。

 「日本一の農園刑務所誕生」なるパネルがあった。

Imgp7787r

『農園刑務所として歩み始めた網走刑務所は、農地を次々と開墾し、
日本一の収穫高を誇る農園刑務所になり、全国刑務所の食糧供給基地
の役割を担うようになりました。

ここでは、農作業を通じて受刑者の改悛(かいしゅん)を促し、段階的に仮釈放へと
結びつける累進処遇が実践され、また、受刑者が更正後に生活できるように、農業
技術を身につけさせることが目指されました。

大正11(1922)年、網走刑務所は農園特設監獄に指定されました。しかし、凶悪で
改善不能の烙印をおされた受刑者の収容施設にされていたため、なるべく内勤を
させるよう行政指導されていました。

名実共に農園刑務所として歩み始めるには、『網走刑務所農園訓練規定』が認可
される昭和5(1930)年まで待たねばなりませんでした。

この規定の認可にあたっては、かつてスイスのミッチヴィル農園監獄を視察し、職員
が囚人と同一の服を着て働く姿に感動したという司法書記官・河辺湛然(かわべたん
ぜん)氏の進言が大きかったと伝えられます。

農園訓練刑務所構想の実現を目指すようになる網走刑務所では、農作業に従事さ
せるなかで受刑者の改悛を促し、その発憤努力の程度に応じて処遇を緩和し、仮
釈放に結びつかせる累進処遇が実践されました。住吉・切通(きりとおし)・湖畔・
中央・山上・二見ヶ丘の各農場を次々と開墾し、専門の技術者を採用して新しい農法
にも果敢に取り組みます。そして日本一の収穫高を誇る農園刑務所になっていった
のです。』

 この後、二見ヶ丘農場を再現した施設にも行く。
 受刑者を過酷な労働から解放し、その代わりに農園訓練をさせる方向に変わって
行ったんですね。

(つづく)

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2015年3月26日 (木)

第746段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(73)~塀がない?

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の行刑資料館にいる。

 次のパネルはこれ。

Imgp7790r

『塀がないってホント?

東京都・新宿区の面積に匹敵する広大な農地には塀がありません!

広大な農地を持つ網走刑務所は、大正11(1922)年特設農園刑務所(※1)に指定
されました。その農地面積は、ピーク時で東京都の新宿区に匹敵する広さ
(16,181,262m2)がありました。

北海道、東北、北陸の刑務所から身体強健で農業経験のあるもの、釈放後に農業
に就く事を希望している者が集められ、塀もなく、監視する刑務官も少ない広い農場
で、先進的な農業に従事させられたのです。

※1 特設農園刑務所/農業に関する新しい技術を実験的に行い、普及させて
   いくという特別の使命を持つ刑務所のこと。』

 なるほど。
 「耕耘庫」にあった農機具が展示されていたのは、そういうわけなんですね。

(つづく)

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2015年3月25日 (水)

第745段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(72)~刑務所の雑具

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の行刑資料館にいる。

 当時の刑
務所で使われる雑具は、どうしていたのか。そのようなコーナーがありまし
た。

Imgp7771r

Imgp7780r

『刑務所の雑具

全てが国費で賄われる刑務所では極力経済節減が図られている。
ことに戦中、戦後の物資不足の折は日用雑貨に至るまであり合わせ
の資材や古材を活用して、自前製造をして使われた。

また、刑務所ではそれらが可能な職種や技能をもった受刑者を収容
していた。』

Imgp7772r
『弁当箱

外役作業に出て昼食をとる時は、この赤い弁当箱(箱弁)を持って行きました。囚人
番号が刻まれた箱弁の中は、主食の麦飯と梅干のみでしたが、食事が楽しみの全て
でもありました。』

突き飯器

囚人の主食を盛り付ける道具です。作業の種類により、飯の量が1等から5等まで
区分されていました。この器で盛り付けると、飯の上部に一・二・三・四・五と数字が
付くようになっています。』

写真では見えにくいですが、上の箱には「七一」、下の箱には「六二」と刻まれています。


Imgp7776r

『足袋(たび)

囚人の衣類は、昭和19(1944)年8月に洋式のジャンパー・ズボン型に変わるまで、和風
襦袢股引型(じゅばんまたひきがた)でしたので、足元も足袋をはいていました。戦前
までは網走刑務所内の縫製工場で製作したものをはいていました。』

Imgp7777r

『草鞋(わらじ)

北海道や東北で使用されていた、雪国仕様の草鞋で、つま先に覆いがあるのが
特徴です。稲の栽培がほとんどできなかった北海道では、藁がとても貴重だった
ので、ぼろぼろになってもはきました。』

雪国使用の草鞋といっても所詮草鞋。さぞかし、足元は寒かったでしょうね。

(つづく)


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2015年3月24日 (火)

第744段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(71)~網走監獄の過酷なくらし

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の行刑資料館にいる。

 これは拘束具の実物のようです。

Imgp7764r

Imgp7766r
『カニ錠』

どう使ったのかは、よく分かりません。

Imgp7765r

『鉄丸(てつまる)

 明治14(1881)年改正監獄則で制定された戒具です。逃走のおそれのある無期
徒刑囚、重罪、軽罪を犯した囚人で、獄舎や器具を破損または暴行、脅迫などを
行ったものに装着しました。』

Imgp7770r

『網走監獄のくらしを物語る言葉

「網走は、なにぶんにもあの寒さだから、監獄のようすも、よそにくらべるとだいぶ
かわっている。屋根はぐっとひくいし、外氣にふれるところはすつかり めばり が
してある。」

「ただ、寒かった。骨の ずい にしみとおるあの言語に絶する寒さは、六年間の
網走生活の記憶を、いまもなおつめたく凍りつかせている―

真冬には、零下三十度にさがることもめずらしくなかった。そんなときは、煖房の
はいった監房のなかでも零下八度とか九度とかをしめす。

はいた息が壁にあたると、見るまに凍りついて、無数の こんぺいとう ができる。
こんぺいとう は壁にだけできるとはかぎらない。うつかりすると、眉毛のさきや
鼻のあたまにもできる。しよつちゆう氣をつけて鼻をもんでいないと、やけどの
やうにどろどろになつて腐つてしまう。」

(「徳田球一篇」 『獄中十八年』 徳田球一・志賀義雄(昭和22年)) 』


「やけどのやうにどろどろになつて腐」るというのは、重度の凍傷のことですね。
とんでもない環境だったんですね。

(つづく)


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2015年3月23日 (月)

第743段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(70)~網走監獄の過酷なくらし

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の行刑資料館にいる。

 「網走監獄の過酷なくらし」というパネルを見てみよう。

Imgp7761r

『朝から晩までの重労働。
麦ご飯に三切れのたくあん、葉っぱが申し訳程度に浮かんでいる味噌汁だけの粗末
な食事。
はむかえば厳しい責めと懲罰房が待っている。
そして何よりも恐ろしいのは、吐く息も立ちどころに凍らせてしまう冬の極寒地獄。

ここには、当時の過酷な監獄のくらしを物語るものが展示されています。 』

Imgp7769r
↑当時の食事を再現したもの

 確かにこれじゃあ、力は出せないですね。


Imgp7762r

Imgp7763r

『囚人服

 明治以降の囚人服は全て官からの貸与となり、官房衣と作業衣に区分されるよう

になりました。官房衣は長袖垂領(たれくび)の長襦袢(じゅばん)型、作業衣は盤領
(まるえり)に袴(股引(またひき))というスタイルが、日本の囚人服として伝統的に用
いられてきました。囚人服の赭色(しゃいろ)(※)は、ベンガラ質の赤い土に薄渋(うす
しぶ)を加えたもので染めるために出る色で、これが囚人を “赤い人”と呼ぶ由縁で
す。』


 たとえ逃亡しても、こんな色の服を着ていたら、すぐに囚人と分かってしまいますね。
そういう狙いもあるのでしょうけど。

(つづく)


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2015年3月22日 (日)

第742段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(69)~網走に監獄がやってきた

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の行刑資料館にいる。

 「網走に監獄がやってきた」なるパネルがあった。

Imgp7756r

Imgp7757r

『「元々彼等は暴戻の悪徒であって、
 尋常の工夫では耐えられぬ苦役を充て、
 これにより斃(たお)れても、監獄費の支出が減るわけで、
 万やむを得ざる攻略なり」

 (金子堅太郎「北海道三県巡視復命書」要約) 』

 たおれても、監獄費の支出が減る、とはひどい言い方ですね。


『懲戒駆役堪ヘ難キ労苦ヲ与ヘ
 罪囚ヲシテ囚獄ノ畏ルベキヲ知リ
 再ビ罪ヲ犯スノ悪念ヲ断タシムルモノ、
 是レ監獄本分ノ主義ナリトス

 (山県有朋「苦役本分論」抜粋)』

 まぁ、なんとなく言いたいことは分かりますが。。。

Imgp7758r

『明治23(1890)年の春、
小さな漁村であった網走に忽然(こつぜん)と現れた
1200名もの男たち。
北海道開拓に従事させるために
全国から連れてこられた囚人たちです。
網走監獄の歴史はここから始まります。
帝政ロシアの南下政策を警戒し北海道開拓
を急ぐ政府は、囚人たちを酷使して驚くほど
短い期間で中央道路を開削し、
多くの犠牲者を出しました。


明治18(1885)年、北辺の巨大な島北海道に開拓の先兵として重罪囚を送り込み、
廉価な労働力で開拓を進めるという、「北海道三県巡視復命書」が金子堅太郎に
よって政府に提出され採択されました。

内務卿の伊藤博文、山県有朋らの懲戒主義論もこれを後押ししました。こうして
北海道集治監は帝政ロシア南下の脅威から北海道を守るという国家的指名を
与えられることになるのです。

網走集治監は、中央道路開削という重要な任務を担うこととなり、明治23(1890)年
に釧路集治監の外役所として設置されます。これが網走監獄の始まりです。

当時の網走は、広大な土地に人口わずか631人という小さな漁村でした。そこに
1,200名の囚人と看守173名が一挙にやってきて、網走の街は驚くべき変貌を遂げた
のです。

かくして北海道集治監は明治10年代から30年代まで北海道開拓の機動力として
運営されていました。そして、先陣を切って北海道を開拓したという大きな功績と、
約3,000名にも及ぶ囚人の犠牲を出したという負の遺産を残したのです。』


3,000人も犠牲になったんですか。
うーん。。。ひどいですね。。。

(つづく)

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2015年3月21日 (土)

第741段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(68)~賀々美はし

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の行刑資料館にいる。

 網走刑務所に行くためには、網走川を渡らねばならない。そこにかかっている橋が
「鏡橋」だ。

 当然、行刑資料館の内部にいるので、川が流れているわけはないのだが、橋の
模型が展示されていた。

Imgp7819r

Imgp7747r

『この橋は、写真の「賀々美はし」をモチーフにしています。
 網走刑務所に通じる橋は歴代「鏡橋」といいますが、これは二代目で
 「賀々美はし」と書きました。


 鏡橋
 「流れる清流を鏡として、
  我が身を見つめ、
  自ら襟を正し
  目的の岸に渡るべし」

 これが橋の名前の由来といわれています。
 受刑者は必ず鏡橋を渡ります。
 網走監獄ができてからこれまで、
 幾十万の足音が、歴代の鏡橋に響いたことでしょう。 


                         二代目賀々美はし
                         大正6(1917)年~昭和24(1949)年 』


因みに現在の鏡橋は、こんな感じだ。

第677段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(5)~網走刑務所  参照。

(つづく)

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2015年3月20日 (金)

第740段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(67)~網走監獄全景

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の行刑資料館にいる。

 次のパネルはこれ。

Imgp7734r

ちょっと写真が小さくて見えないかも、だけど、網走監獄のパノラマ写真。
よくこんな写真があったな、と思うけど。

左から説明書きを読んでいこう。

『高見張り

囚人の逃走、暴行事件などを監視するところです。網走監獄は敷地が広いので、昭和
43(1968)年まで所内と裏山に4カ所も高見張りがありました。高さ8mの監視所から、
2時間交代で刑務官が勤務しましたが、巨大な敷地の監視は緊張の連続だったといい
ます。』


『五翼放射状平屋舎房

明治45(1912)年、ベルギーのルーヴアン監獄を参考に建設。建築にあたっては木材の
伐採から製材、建築まで受刑者が行い完成。5本の指を広げたような放射状の形から
この名前がつきました。房の外側がキリギリスの虫かごに似ていることから、受刑者は
“キス監”と呼んでいたそうです。

舎房面積:3333.72m2
房   数:226房
最大収容人数:1,200人』

この五翼放射状平屋舎房は、このあと見学する施設だ。


『教誨堂

犯罪ですさんだ心を宗教の力で更正と導く、宗教教誨が行われた建物。神仏の魂が
宿るということで、受刑者はどの建物よりも精魂こめて造ったと言われています。

戦後は宗教の自由により講堂と呼ばれ、慰問講演や卓球など、レクリエーションの場
としても使われました。
昭和56(1981)年まで使用。

和洋折衷の建築様式
外観:入母屋造、瓦葺き屋根
内部:白壁漆喰、 シャンデリア吊下げ』


『庁舎

刑務所の主軸となる場所で、典獄(てんごく(刑務所長))室を始めとして、会議室、
総務課、戒護課、用度課、作業課、教育課などに区分けされ、担当職員が執務を
行っていました。水色とグレーで彩色された外観、屋根に設けられた飾り窓などの
洋式建築と千鳥破風の鬼瓦をのせた屋根といった和風建築もみられ「和洋折衷」と
呼ばれた明治時代の官庁建築です。

建築年代  明治45(1912)年
面   積  500cm2       』


『運動場
 炊場
 印刷工場
 洗濯場
 北部工場
 牛舎
 レンガサイロ
 豚舎      』


 それにしても囚人たちは、監獄の建屋の建設まで手伝っていたのですね。
 自分たちが入る牢屋を作るというのも、複雑な心境だったでしょうね。

(つづく)


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2015年3月19日 (木)

第739段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(66)~網走監獄の始まり

  現在、網走にある『博物館網走監獄』の行刑資料館にいる。

 『これが網走監獄だ!』と題したパネルがある。

Imgp7723r

Imgp7724r

『これが網走監獄だ!

北海道の守りを固めるための開拓。
その突破口として使役されたのが多くの囚人たちです。
網走監獄は、その開拓の拠点施設として始まりました。

明治のはじめ自由民権運動が台頭し国事犯が激増しました。明治10年代から増え続け
た囚人は明治18(1885)年には、8万9千人と過去最高の収容者数となり、全国的に監獄
は過剰拘禁となりました。

政府はこの状態を解決するため、明治14(1881)年、徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者
を拘禁する集治監建設を北海道の地に求めました。

同時に北海道庁長官永山武四郎は、北の守りを固める屯田兵を設置するため、網走
から石北国境間、すなわち「中央道路」の開削を命じたのでした。

永山はロシア、清、アメリカ視察後、「沿海州の兵備が増強され、ウラジオからシベリア
鉄道の敷設が始まり、ロシアの東進恐るべし」と考えこの事業を進めました。

明治22(1889)年に完成した上川から札幌間の石狩道路に中央道路が接続されれば、
北海道の中央部が横断可能となり、屯田兵入植と軍用の道路が完成されるという妙策
でした。

この命題を受け明治14(1881)年北海道集治監の囚人に開墾、鉱山、土木工事などに
就役させるとの建議が容れられ、樺戸(かばと)、空知、釧路に各集治監が開設されま
した。

こうして明治23(1890)年、釧路集治監から1200名の囚人と看守173名が網走に入り、
中央道路開削工事の起点として、網走囚徒外役所が開設されました。

翌年の4月から囚人による工事が始まり、多くの尊い犠牲を払って中央道路は完成し
ました。これがまさに網走監獄のはじまりです。』

Imgp7726r

『北海道集治監の囚人労働

囚人道路    約724km
開墾面積    17,410,800m2
河川清掃    168km
屯田兵屋建築 1,474棟

樺戸集治監(月形町)
収容人数:2,000名

空知集治監(三笠市)
収容人数:3,000名

十勝分監(帯広市)
収容人数:1,300名

釧路集治監(標茶町)
収容人数:1,700名

網走囚徒外役所(網走市)
収容人数 1,200名』

(つづく)


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2015年3月18日 (水)

第738段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(65)~「網走」を小説では

  現在、網走にある『博物館網走監獄』の行刑資料館にいる。

 昨日の続きで、網走について、書かれている小説の一説が載っているパネルがある。

Imgp7718r

Imgp7716r

『―私がもっとも好きだったのは網走0番線で、
ここには湧網線が発着していた。―

はじめて湧網線に乗ったのは昭和四五年の二月だった。
網走駅の0番線に氷雪をこびりつかせた
ディーゼルカーが一両、
ポツンと停っていた情景を
忘れることができない。渺々と荘厳にして非情に広がる流氷の景観は、
さらに忘れることができない。
それは、あの氷の海のなかに身を沈めたいとの
死への誘惑を感じさせるほどであった。

湧網線は、昭和六二年三月に廃止になり、
網走駅の0番線も消滅した。

『旅は自由席』 宮脇俊三(平成三(1991)年)    』


0番線は、珍しいのかなと思ったら、意外とあるんですよね。
ちょっと前に京都に行ったら、JR京都駅にも0番線がありました。
東京だと、JR綾瀬駅に0番線がありますね。北綾瀬に行くホームです。


Imgp7717r

『北海道の春は遅い。
北海道も東のはずれにある網走では、
三月の半ば過ぎまで、全てが
厚く積った雪に閉ざされている。
かんじきを履いて監獄の裏にある丘を登って
見渡しても、目に映るものは、
灰色の空とその下に覗いている落葉樹の梢だけで、
他は雪ばかりで何もみえてこない。
海までが鉛色に鈍く輝く流氷におおわれている。

『囚人道路』  阿部譲二 (平成5(1993)年)     』

(つづく)


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2015年3月17日 (火)

第737段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(64)~「網走」を小説では

  現在、網走にある『博物館網走監獄』の行刑資料館にいる。

 網走について、小説ではどのように書かれているんだろう。

 そんなパネルがあった。

Imgp7713r

『― しばらくして自分は、
 「どちらまでおいでですか」と訊いた。
 「北海道で御座います。
  網走とか申す所だそうで、
  大変遠くて不便な所だそうです」
 「なんの国になってますかしら?」
 「北見だとか申しました」
 「そりゃあ大変だ。五日はどうしても、かかりましょう」
 「通して参りましても、一週間かかるそうでございます」 ― 』

 『網走まで』 志賀直哉(明治43(1910)年)  


Imgp7714r

『一月二月は零下二十八度までになるんだ。
それでも戸外作業に出る。
山で伐採をやる。
鼻毛もばりばり凍りやがるし、
頬冠りしている水ベラ(手拭)には息が凍りついてよ、
がばがばしやがるし……、
寒いってんじゃねえ、痛いってんだ」

 私も耳をすます。北海道の冬は始(初)めてなのだ。
未知の世界には、刑務所には馴れているとはいえ、
いささかおののきがある。十月に初雪があるという。
監獄―寒獄、の思いが切実に来る。
北の、さいはての牢獄なのだ。 』

『網走番外地』 伊藤 一 (昭和32(1957)年)


寒い獄と書いて「寒獄」とは。
小説の中とはいえ、実際にあり得たような話ですね。


Imgp7715r

『網走の駅は、網走刑務所を意識しているのか、
赤レンガのところに、タテに「網走駅」と書かれている。

横書きでない理由は、網走刑務所を出所した人間が、
この駅から乗って、社会に出ていくので
「まっすぐに生きて欲しい」という願いが
あるせいだという。 』

『オホーツク殺人ルート』  西村京太郎(昭和59(1984)年)


下の写真が現在のJR網走駅なのだが、実際網走駅の表示は縦書きなのだ。

Imgp8165r

(つづく)


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2015年3月16日 (月)

第736段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(63)~行刑資料館

  現在、網走にある『博物館網走監獄』の行刑資料館にいる。

 次は、「市民による鎖塚(くさりづか)の発掘」と題したパネルだ。

Imgp7705r

Imgp7711r

『市民による鎖塚の発掘

中央道路完成から76年を経た昭和40年代に、民衆史掘り起こし運動の先達であった
留辺蘂(るべしべ)町白龍山遍照院住職・故林隆弘(りゅうこう)尼僧を中心に、中央
道路沿いを掘り起こすという作業が行われました。

工事の犠牲になった囚人たちは、道路沿いに土まんじゅうを作って連鎖の鎖とともに
葬られましたが、それが後に鎖塚と呼ばれました。

林氏は道端に埋められた囚人の遺骨を拾い集め、犠牲者が安らかに眠れるように
供養しなければ、「自らも浄土に行けない」と積極的に活動を進めたのでした。

遺骨の発掘作業には約120人が参加し、またこの活動には多くの支援が寄せられまし
た。』


Imgp7712r

『市民による発掘の様子

「掘りながらも、骨は出てほしくない、と願う反面、もっと深く掘らねばとの思いが私
の頭の中を交錯していて、発掘中は異常なまでの精神の緊張状態にあった」

発掘に参加した青年の言葉
『ル・ペシ・ペの墓標』より抜粋   』


Imgp7708r


Imgp7709r

供養碑の位置。
大きい緑丸は遺骨が出たところ。小さい緑丸は墓地の印。

市民の手によって、犠牲者は供養されていたんですね。。。

(つづく)


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2015年3月15日 (日)

第735段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(62)~行刑資料館

  現在、網走にある『博物館網走監獄』の行刑資料館にいる。

その中に「中央道路開削工事220kmの苦難」と題したパネルがある。

Imgp7702r

『此部屋水腫病のために病臥せる囚人凡そ七十二名。同じ病のために悩めり。
苦悶の声、尤も憐れなり。覚(おも)はず一片の熱祷(ねっとう)を囚徒のために
天父に捧げたり。此夜、隙間より洩れ吹く風の為に露されて、一夜を辛く明す。

『留岡幸助日記』明治二十四年十月二十一日より』

Imgp7703r

『1,115人

網走から北見峠までの開削工事に出役した囚人の人数。
網走外役所に送られた1,200人の囚人のうち
ほとんどがこの過酷な工事に携わった。』

Imgp7704r

『211人


網走から北見峠下までの開削工事で死亡した囚人の人数。』

『図中の腰につながれている鎖は、明治5(1872)年の監獄則で制定された連鎖
という戒具です。囚人が構外で作業する時、二人の腰を鎖でつないで逃走予防に

用いました。鎖の重さが体力をより消耗させました。』


。。。どの資料を読んでも、開削工事の過酷な実態が見えてきます。

(つづく)


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2015年3月14日 (土)

第734段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(61)~行刑資料館

  現在、網走にある『博物館網走監獄』の行刑資料館にいる。

 「中央道路開削工事220kmの苦難」と題したパネルがある。

Imgp7698r

Imgp7699r
『228km

網走から旭川までの中央道路全距離。そのうち網走外役所(がいえきしょ)の担当は、
北見峠までの163km。

約8ヶ月

網走外役所が担当した163kmの開削が完成するまでの期間。』

Imgp7700r

『北見道路の囚人たちの悲惨な状況は、思い出すと今でも胸がいっぱいになります。
工事を早くせよというので、松明(たいまつ)をつけて夜中まで、クタクタになるまで
競争してやらしたものです」

当時の看守部長丸田俊夫氏の回想
『網走監獄沿革史』より 』

Imgp7701r

「人二二生ノ命ナク法ニ二重の刑アルヘカラス然ルニ政府カ彼等ヲ驅テ此危険
ナル事業ニ使役シ而シテ斯ル惨状ニ陷ラシムルニ至ルハ是豈二重ノ刑ヲ附加
スルニ異ランヤ」

明治二十七年第八回帝国議会衆議院議事速記録
百万梅治議員の質問書より


『北海道集治監の多数の囚人犠牲が国会の討議に上ったときの記録です。

「人の生は1度だけであり、法律で各々刑期が決められ服役しているにも
関わらず、過酷な労働により死に至るというのは、死刑という裁きを二度受けた
ことになる」

こんな理不尽があっていいはずないと、囚人強制労働廃止を訴え、明治27年(1894年)
囚人による強制労働は廃止されました。』


刑務所で行われる刑務作業とは、意味あいが違いますからね。死んでしまうまで、
労働させるというのは、非人道的となったのでしょう。

(つづく)


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2015年3月13日 (金)

第733段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(60)~行刑資料館

  現在、網走にある『博物館網走監獄』の行刑資料館にいる。

 「中央道路開削工事220kmの苦難」と題したパネルがある。

Imgp7696r

読んでみよう。

『中央道路開削工事220kmの苦難

囚人たちの犠牲の上に造られた、
北海道開拓を進めるための幹線道路


明治24(1891)年からはじまった中央道路開削工事には、工事区間を13工区に分け、
1200名もの囚人が投入されました。彼らの寝る小屋を建てる大工班、橋を架ける
橋梁班、森や大地を切り拓く開削班が設けられましたが、大部分の囚人たちは工事
の主力部隊となる開削班に組み込まれました。220名ずつ4組に分けられ、組ごとに
工区を分担しました。

彼らは5.4m幅の道路を通常の4倍のスピードで完成させることを求められていたので、
早朝から夜中まで作業をさせられました。この地獄のような突貫工事が実現した背景
には、分担区域を完成させた班から順に次の区域を選ばせるという競争心を煽る進め
方や、模範囚と重罪囚を組み合わせて連鎖でつなぐ逃走防止策など、巧妙な組織管
理がありました。

しかし、長時間労働、夏場の長雨と栄養失調による水腫(すいしゅ)病(脚気(かっけ))
の大量発生、原始林を切り拓く危険な作業の連続、冬の厳しい寒さなどかが彼らの
生命を脅かし、平均にして工事区間700mに1人の割合で犠牲者を出すという悲惨な
結果を生みました。』

700mに1人の割合の犠牲者。。。
ひどい話です。囚人は人間扱いされていなかったのですね。
この犠牲のおかげで北海道の開拓が進められたというわけですね。

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(つづく)

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2015年3月12日 (木)

第732段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(59)~『獅子の時代』

  現在、網走にある『博物館網走監獄』にいる。耕耘庫(こううんこ)をようやく見終わって、
次の展示棟に行こう。
 次は『行刑資料館』。
 明治期から現在までの行刑の変遷や、刑務所内での生活、受刑者が北海道開拓に果
たした役割などを紹介している。

Imgp7687r

Imgp7688r
体験コーナーがあった。
しかし、囚人服や編み笠が着用している人はいなかったな(^^;。 私が行ったときは。

『囚人服を着てみよう!

明治時代の囚人たちは、このような明るい赭色(しゃいろ(赤土の色))の囚人服を
着せられました。そのため人々からは「あかい人」などと呼ばれていたそうです。
渋柿で染めたもので、逃亡しても目立ちます。』

Imgp7689r
『編み笠をかぶってみよう!

囚人たちは刑務所の外を歩かされる時、この編み笠をかぶらされました。
その理由は3つあります。
一つは人から好奇の目で顔を見られないようにすること、
一つはその土地の道などを詳しく知ることができないようにすること、
そして一般社会の人々に危険が及ぶことなく無事収監できるようにすることです。』


。。。2014年11月28日にお亡くなりになった俳優の菅原文太さん。
彼が1980年のNHK大河ドラマ『獅子の時代』に会津藩の下級武士「平沼銑次
(ひらぬませんじ)」役で主役を務めています。平沼銑次は架空の人物です。

もう一人の主役が加藤剛さん。彼は薩摩藩の郷士「苅谷嘉顕(かりやよしあき)」
役でした。

 主役の二人が会津藩と薩摩藩ということで、お分かりでしょうが、幕末・明治維新
を題材にした作品でした。

 物語の中で、平沼銑次は無実の罪を着せられ、その濡れ衣が晴れぬまま北海道
に囚人として送られてしまいます。

 送られた先が、石狩地方(現在の北海道樺戸郡月形町)にあった樺戸集治監
(かばとしゅうじかん。集治監は現在でいうところの刑務所)でした。

 そのシーンは、第39回 『再会・北海道』で描かれています。
 街中を赭色の囚人服を着て、顔が隠れる編み笠をかぶって集治監に行く様子が
描かれていました。

 現在では、『獅子の時代』はDVDで見られるのですが、うちの近所のTSUTAYAでは
置いてないんだよなぁ(-_-;。お取り寄せはできるんだけど。。。

Imgp7690r
『鉄丸(てつまる)をつけて歩いてみよう!

囚人たちは、中央道路を開削するために足元の悪いところで重労働させられている
にもかかわらず、ペアになった別の囚人と鎖でつながれ、足にはこのような鉄丸を
つけられていました。逃亡防止のためです。』

そのペアは「腐れ縁」ならぬ「鎖縁(くさりえん)」というわけです。

Imgp7691r
↑これも行ったときは、試している人はいなかったなぁ。

Imgp7692r
『もっこを担いでみよう!

森を切り拓いて中央道路を開削するためには、土砂や石ころ、重い岩などを何度も
何度も運び出さなければなりませんでした。その時に使われたのが、このような
もっこ といわれる運搬具です。』

Imgp7693r
↑苛酷ですよね。重機があるわけではなく、人力で切り拓いていくのですからね。。。

(つづく)

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2015年3月11日 (水)

第731段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(58)~耕耘庫

  現在、網走にある『博物館網走監獄』の耕耘庫(こううんこ)の中を見ている。

 今回が耕耘庫の最後。長かった~。
 ツーリング記というより、耕具の説明ブログになってるけど(^^;。

 今日は、『冬』。

Imgp7669r

『 冬

12月に入ると網走管内では、本格的な寒さの訪れと共に根雪(長期積雪)となります。

1月から2月は、地形の影響で比較的晴れて降雪量も少なく、季節風が北から吹いてく
る時は、大雪になる時もあります。一方で、空気中の水分の氷結によってできる
「ダイヤモンドダスト」や海面、川面から湯気が立ち上る「けあらし」など寒い地方独特
の珍しい現象を観察できるのもこの頃です。

また、1月半ばには、流氷が網走沿岸を覆い尽くします。

冬の農閑期には、薪炭(しんたん)製造や来春に向けての農機具の手入れ、来春に
播く小豆の選別作業などが地道に行われていました。

また、縄ない機や俵編み機などを使用し、米麦の包装や輸送、貯蔵に用いるほか、
馬鈴薯や豆類の包装をするために俵や縄を製作していました。

その他の副業として、ハッカ油製造、耕馬の繁殖生産、家畜家禽の飼養、デンプン
の製造、養蚕などがありました。

なかでも、積雪を利用した冬山での北海道の伐木(ばつぼく)・造材事業は、明治初期
から著しく発展し、昭和の中ころまで続きました。

その結果、北海道は、日本で最も早く馬橇(ばそり)が普及しました。一番普及率が
高かったのは、柴巻馬橇やカナ橇でした。また、傾斜地での集材作業には、前バチ橇
と後バチ橇を二台組み合わせて一台としたバチバチ橇などが使用され、緩斜面は平地
では、ヨツ橇が使用されました。

さらに、玉橇、ツノバチなど用途によって様々な皮を剥く道具や様々な形の鋸(のこぎり)
や斧、鉞(まさかり)なども使用されていました。』

(つづく)


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2015年3月10日 (火)

第730段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(57)~耕耘庫

  現在、網走にある『博物館網走監獄』の耕耘庫(こううんこ)の中を見ている。

 北海道網走管内の春夏秋冬の農業について書かれたパネルがあった。
 一般の方は、見学時間の関係もあって、これをまじまじ読む人もいないだろう。
 そこで、書き出してみました。今日は、『秋』。

Imgp7652r

『 秋

夏の作業が終了し、9月に入ると秋風を感じ始め、能取湖湖畔のサンゴ草が赤く色
づき始めます。また肥培(ひばい)作物として、撒かれたキカラシやヒマワリが広大
な畑地に黄色のじゅうたんのように広がります。9月から10月にかけては一年のうち
で最も天気の良い時期となります。

しかし、秋の大雨、初霜、初雪の影響が収穫間近の農作物に及ぶことがあり、油断は
できませんでした。厳しい気候の変化を乗り越えて、無事作物が育つと、収穫作業が
はじまります。

収穫作業、穀物などの子実の精選作業などは一つ一つ手作業で行われ、稲を刈った
り、馬鈴薯などの根菜類を掘り起こしたり、穀物と夾雑物(きょうざつぶつ)とを分けたり
する作業が、人手と時間がかかる日本古来の農機具を使用し行われていました。

その後、開発が進み、足踏み・畜力・動力などを利用した農機具が主流になり作業が
効率化されていきました。

収穫した豆類を積み上げて、ビニルシートの帽子をかぶせ、乾燥させる「ニオ積み」を
畑で見かけるのもこの頃です。

このようにして、収穫された作物は、明治初期ころには、農家の自給としての需要が
高い状態でしたが、徐々に網走の町に供給されるようになり、市場に出回りました。

また、網走監獄では、広大な耕地から収穫される穀物や蔬菜類(そさいるい)などは、
囚徒の食料となる一方で、戦前や戦後の食料不足の時期に各地に供給され、多大は
貢献をしました。』

(つづく)


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2015年3月 9日 (月)

第729段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(56)~耕耘庫

  現在、網走にある『博物館網走監獄』の耕耘庫(こううんこ)の中を見ている。

 北海道網走管内の春夏秋冬の農業について書かれたパネルがあった。
 一般の方は、見学時間の関係もあって、これをまじまじ読む人もいないだろう。
 そこで、書き出してみました。今日は、『夏』。

Imgp7643r

『 夏

春の作業が終了し、6月から8月にかけて気温が徐々に上昇し、7月半ば過ぎから夏
らしい日が現れてくると、馬鈴薯の白い花やハマナス、アヤメなどが咲き乱れます。

また畑の麦や牧草も一気に育ち始めると共に、雑草も伸びてきます。本州に比べ広大
な土地での除草は、かなりの労力が必要でした。そのため作物やその成長度合いにあ
わせて、人力と畜力をうまく使い分けながら草を抜き取ったり、削ったり、畝間(うぬま)
の土を掻(か)き混ぜるなどの様々な農機具が多数考案、導入されました。

また、この時期にオホーツク海の冷たい高気圧などによって、8月になっても日照時間
が短く、低温や長雨などが続くと、農作物に病気や害虫などの冷害が発生する恐れが
あるため、明治期から栽培方法を変えたり、誘蛾灯や手で捕殺するなどの様々な方法
で駆除がなされてきました。

その後、大正初期より背負噴霧器などの駆除機が普及し、経済的で簡単に作業ができ
るようになりました。

夏場の作業も、外国から紹介された代表的な畜力農機具を取り入れ、日本に以前から
ある農具にさらに工夫を凝らしたものを使用することで、北海道の土地、風土、気候に
根ざした北海道独自の方法と農機具を考案し、作業の効率化が図られていきました。』

(つづく)


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2015年3月 8日 (日)

第728段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(55)~耕耘庫

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の耕耘庫(こううんこ)の中を見ている。

 北海道網走管内の春夏秋冬の農業について書かれたパネルがあった。
 一般の方は、見学時間の関係もあって、これをまじまじ読む人もいないだろう。
 そこで、書き出してみました。

Imgp7632r

『 春

北海道網走管内では、知床連山の雪が溶け出し、3月末には流氷が去ります。4月の
中頃にかけて根雪(ねゆき(長期積雪))が消え、春本番となり、フクジュソウやミズバ
ショウが雪どけの地面に彩りをもたらします。

この季節になると、苗代の準備や種籾(たねもみ)の芽出し、温床苗床のまわりによし
垣作りが始まります。

農耕地ではまず、整地作業が行われます。明治以前は、鋤(すき)や鍬(くわ)で土を
耕すなどの手作業で整地が行われていました。

その後、明治初期に畜力を利用した農機具であるプラウやハローなどが外国から導
入されると、土を耕し、起して、反転させる整地作業が手作業の何倍もの速さで行わ
れるようになりました。

5月、6月になりエゾキスゲ、エゾスカシユリなどが咲きはじめ、整地作業を終えると、
それぞれの作物によって作業内容が変わりますが、主に種を播く作業や肥料を撒く
業が行われました。

これらの作業も、手作業で行われていたものを、外国kらの畜力農機具や北海道の
農業に適した独自の農機具として手押し豆撒き機やタコ足(水田直播機(ちょくはん
き))などを利用・考案することで作業の効率化と簡易化を図りました。

しかしながら、5月・6月の網走管内独自の霧雨や遅霜などによる農作物への被害
に悩まされることも度々ありました。』

(つづく)


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2015年3月 7日 (土)

第727段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(54)~耕耘庫

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の耕耘庫(こううんこ)の中を見ている。
これは「飼葉桶(かいばおけ)」。


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Imgp7681r

『飼葉桶

馬や牛の肥糧(ひりょう)とする乾草(ほしくさ)などの飼葉を入れる桶として使用され
ていました。丸木を刳(えぐ)ったフネ(槽)形のものを使用していました。材料としては、
水に強い栗や松などがよく使われており、大きいものは長さ2m余り、幅は50cmほど
のものもありました。』

 丸太をえぐるとは、大変だったでしょうね。

(つづく)

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2015年3月 6日 (金)

第726段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(53)~耕耘庫

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の耕耘庫(こううんこ)の中を見ている。
これは「柴巻馬橇(しばまきばそり)」。


Imgp7684r

Imgp7683r

『柴巻馬橇

明治初期に開拓使がロシア型馬橇の製作を試み、その後、技術を学んだ職人たち
が改良し完成させました。厚いナラの台木を蒸籠(せいろ)で蒸かして先端を大きく
曲げ、5本の束木を立て、若木を巻いて組み立て、裏金を付けました。北海道の車橇
職人の高度な技術が伺えます。
丈夫で格好が良く、用途も広いので、北海道の馬橇の70~80%を占め、札幌を中心
に普及しました。』

ときどき映像でこのようなソリを引く馬の姿を見ますよね。ばんえい競馬で馬が引く鉄の
ソリもこのソリの形を模しているんですね。

(つづく)

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2015年3月 5日 (木)

第725段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(52)~耕耘庫

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の耕耘庫(こううんこ)の中を見ている。
これは「縄ない機」。

Imgp7677r_2

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Imgp7675r

『縄ない機

藁縄(わらなわ)は様々な目的で農家などに使用されましたが、これを綯(な)うのは、
冬の農閑期の重要な仕事でした。この作業を歯車を利用して、ハンドルを回しながら
機械的にできるようにしました。道内では、藤原式とマルカ式が著名でした。』

展示してある機械が今でも動くか分かりませんが、どんな感じで縄ができていくのか、
実演して見せて欲しいものです。

(つづく)


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2015年3月 4日 (水)

第724段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(51)~耕耘庫

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の耕耘庫(こううんこ)の中を見ている。
これは「藁切(わらき)り」。


Imgp7674r

Imgp7673r

『藁切り

山野の笹や野草、藁、牧草などを適当な長さに切断する用具で、家畜の飼料や敷き藁
を切る作業に用いられました。円弧往復式という型で、手押し式で木製機枠の上部を
藁入れ箱とし、庖丁の先端をピンで固定、これを支点に上下の往復運動で裁断しました。』

なるほど。いろいろな道具があるものです。

(つづく)


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2015年3月 3日 (火)

第723段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(50)~耕耘庫

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の耕耘庫(こううんこ)の中を見ている。
これは「吹き上げカッター」。


Imgp7671r

Imgp7672r

Imgp7670r

『吹き上げカッター

吹き上げカッターは刈り取ってきた稲藁(いねわら)など収穫物の残りかすやトウモロ
コシ等の資料用作物を細かく切断して、吹き上げ、堆肥にしたり、サイロに詰め込んだ
りするために使われていました。』

ということなんですが、写真の撮り方がイマイチで、全体像がわかりませんね(^^;。

(つづく)


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2015年3月 2日 (月)

第722段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(49)~耕耘庫

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の耕耘庫(こううんこ)の中を見ている。
これは「大根掘機」。


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『ビート大根掘機

ビートの収穫に使用されました。ビートは、甜菜(てんさい(砂糖大根))ともいいます。
明治4年(1871年)に札幌官園で初めて栽培されました。明治政府は、精糖業を重視
し、北海道で甜菜栽培を奨励し、昭和初期から畜力用のビート大根掘機が現れ、広く
普及しました。』

 寒さに強い寒冷地作物なので、日本では北海道を中心に栽培されていますよね。
 自分が気をつけて見ていないだけかもしれないけど、甜菜の栽培風景を北海道で
見たことがない気が。。。多分、気づかずスルーしているんでしょうね。

(つづく)

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2015年3月 1日 (日)

第721段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(48)~耕耘庫

現在、網走にある『博物館網走監獄』の耕耘庫(こううんこ)の中を見ている。
これは「籾剥機(もみはぎき)」。


Imgp7665r

Imgp7664r

『岩田式籾剥機(いたわしきもみはぎき)

昭和初期に開発され、遠心力によって籾をゴム盤に衝突させ皮を剥ぐ衝撃式の方法
でした。上部の漏斗に籾を見たし、螺旋形のロールに一定量ずつ落下させると、高速
回転する加速盤から遠心力によってゴム製の脱ぷ盤に飛ばされました。籾は衝撃に
より籾殻(もみがら)がはがされ、玄米と共に出口に流出しました。岩田式は燕麦(えん
ばく)の脱ぷ、蕎麦、黍(きび)、稗(ひえ)などの皮剥ぎにも使われました。』


ちょっとインターネットで調べてみたんだけど。。。

「籾剥ぎ機」でググったら、一番上に来たのが井関農機のHPだった。

http://www.iseki.co.jp/dream/history/

で、アドレスをクリックしてみると、「井関の歩み」というページに飛んだ。
なかなか見せ方に工夫があるな、なんて見ていたら、「製品の歴史」となり、
大正15年全自動もみすり機で創業とある。
『山本式自動選別機に岩田式籾はぎ機を取りつけ、それに井関独自の技術を
織り込み…』
岩田式籾剥機の名前がここで出てきた。

(つづく)

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