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2015年2月

2015年2月28日 (土)

第720段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(47)~耕耘庫

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の耕耘庫(こううんこ)の中を見ている。

これは「唐箕(とうみ)」。


Imgp7660r

Imgp7659r

『唐箕

元禄時代に唐から伝わったことを意味する唐箕は子実と夾雑物(きょうざつぶつ)を
選別する道具でした。以来300年の間、形態を変えることなく使用されてきました。
内部で風を発生させることで子実と夾雑物の重さの差を利用し選別しました。農家
はそれぞれ1台の唐箕を所有し、これを専門の大工が作り販売しました。製作者は
唐箕の胴に屋号や作者名を大きく墨書(ぼくしょ)しました。』

 重量の差を風を使って分別するという方法は、いろいろなところで使われていますね。
ゴミの分別にも使っていますし。

 中国(唐)から伝来品だったんですね。

(つづく)


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2015年2月27日 (金)

第719段:2015年GW~オーシャン東九フェリー利用によるツーリング計画(1)

 今日は、北海道ツーリング記はお休み(^^;。
 最近は、農機具の説明になっていて、ツーリング記と呼べないような気が…coldsweats01
 まっ、それはいっか。

---------------------*-------------------------*------------------------


 2月も下旬になって、4月下旬から始まるGWのほぼ2ヶ月前となった。
 はて。オーシャン東九フェリーの予約は1ヶ月前からだったか、2ヶ月前からだったか。。。
 HPを確認したところ、乗船日の1ヶ月前からだった

http://www.otf.jp/reservation/
 つまり3月下旬に予約すればよいことになる。

 さて。ここでおーしゃん東九フェリーの予約案内のページを見ると、以前と変化が。

 本文の文面は以前とは変わらない。電話予約方法が記述されている。
 変わったのは、上述のページの左側にあるバナー。
 『WEB予約はこちら  WILLER TRAVELサイトで予約』と書かれている。

http://travel.willer.co.jp/st/3/ja/pc/ferry/carrier/detail.php?id=114&mid=742

 オーシャン東九フェリーもようやくWEB予約ができるようになった。
 しかも、上述のWILLER TRAVELのサイトを見ると、
 『スマートフォンサイトのページへ』
 と書かれているリンクがある。スマートフォンでも予約ができるのだ。

 もっとも、予約をするには、会員登録が必要だと書いてある。
 WILLERポイントというのもあるようなので、ポイントがたまれば、支払い額を割り引き
できる、らしい。

 それから、気をつけなければならないのが、運行スケジュール。
 以前にも書いたが、オーシャン東九フェリーはGWの時季に4隻あるフェリーのうち、
必ず1隻がドック入りする。

 現在、HPでは2月~4月までの運行スケジュールがUPされている。

http://www.otf.jp/schedule/

 
 それによると、4月26日からスタンダードフェリーの『おーしゃんいーすと』がドック入り

することが記されている。5月分のスケジュールがまだ発表されていないので、分からな
いが、下手をすると5月6日東京港着のフェリーが休航になるかもしれない。

 この場合、1日早いフェリーに乗船しなければならない(5月5日東京港着)。

 今年は瀬戸内海を巡りたい、と思っているのだけど、フェリーの運航スケジュールに
よっては、目的地を変更するかもしれない。

 5月分の運航スケジュールを注視して復路の予約をする必要がある。



20130428_p4281061r
↑2013年4月28日 新門司港で撮影したオーシャン東九フェリーの
 カジュアルフェリー 『おーしゃんさうす』

【関連記事】

第26段:オーシャン東九フェリー(1)
第27段:オーシャン東九フェリー(2)
第28段:オーシャン東九フェリー(3)
第32段:オーシャン東九フェリー(4)
第383段:2014年GW~オーシャン東九フェリー利用によるツーリング計画(1)
第384段:2014年GW~オーシャン東九フェリー利用によるツーリング計画(2)
第385段:2014年GW~オーシャン東九フェリー利用によるツーリング計画(3)
第386段:2014年GW~オーシャン東九フェリー利用によるツーリング計画(4)
第392段:2014年GW~オーシャン東九フェリー利用によるツーリング計画(5)
第394段:2014年GW~オーシャン東九フェリー利用によるツーリング計画(6)
第413段:2014年GW~オーシャン東九フェリー利用によるツーリング計画(7)

(つづく)

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2015年2月26日 (木)

第718段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(46)~耕耘庫

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の耕耘庫(こううんこ)の中を見ている。
これは脱穀機。


Imgp7655r_2

Imgp7653r


『足踏み脱穀機

刈り取った稲の穂を扱(こ)いで籾にする脱穀機の一種として明治40年代に千歯扱き
にかわる脱穀機として、本州各地で足踏み式回転脱穀機が考案され、実用化がはか
られました。機体は、三角構造をとり、回転する銅の扱き歯に針金の逆V字の歯杆(し
かん)を取りつけた合理的な型が考案されていました。北海道へは大正末期頃に大量
の売り込みが行われました。』

 現在のコンバインも基本的には、この機構を使って脱穀していますよね。歯の形は
違うでしょうけど。。。

 と思っていたら、インターネットで調べたら、現在のコンバインでも機構的に全く同じ
脱穀機が搭載されていました。歯の形もV字でほとんど一緒。


Combine

 足踏み脱穀機は文字通り人力でしたが、こちらは動力式の脱穀機。

Imgp7667r

Imgp7666r

『サカイ式脱穀機

 動力脱穀機は昭和初期に石油発動機の普及にあわせて開発がすすみ、徐々に
大型化しました。構造においても足踏み式より複雑な機能を備えています。扱き胴
(こきどう)にカバー(覆蓋(ふくがい))がつき、唐箕羽根(とうみはね)をともなって
茎や塵を吹き飛ばし、子実と仕分けできました。』

(つづく)


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2015年2月25日 (水)

第717段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(45)~耕耘庫

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の耕耘庫(こううんこ)の中を見ている。

Imgp7648r

Imgp7650r
『背負い噴霧器

作物の病気や害虫の駆除に用いられる用具です。薬剤による防除は大正初期から
奨励され、道庁や糖業会社が貸し与えて普及に努めました。
この噴霧器は、二重瓶式といって、容量は13.5L、手押しポンプで圧力を加え、2本の
ホースの先端ノズルから薬液を噴霧し、約15分間の作業ができました。』

現在でも同様の噴霧器がありますよね。手動式の他に電動式とかも。

(つづく)


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2015年2月24日 (火)

第716段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(44)~耕耘庫

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の耕耘庫(こううんこ)の中を見ている。

Imgp7647r_2


Imgp7646r
『田下駄(たげた)

日本に古来から存在し、泥炭質水田のぬかるみに足をとられず作業するために使用
されていました。田植えや除草、稲刈りにも使用され、一枚板製のものや桟(さん)に
編んだ田下駄も使われました。』

 雪で足がもぐらないように履くスノーシューみたいなものですね(ちょっと違うか(^^;)

(つづく)


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2015年2月23日 (月)

第715段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(43)~耕耘庫

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の耕耘庫(こううんこ)の中を見ている。

Imgp7645r

Imgp7644r

『人力カルチベーター

明治初期に外国から紹介された代表的な農機具の一つです。北海道には、明治の
末頃から普及しました。カルチベーターはホー(草削り)による除草のように単に表面
の雑草を取り去るだけでなく、爪が土中深く入り土を柔らかくして作物の根元に酸素
をおくり、根張りを助ける農具でした。また、形の異なる爪を取り替えることによって
中耕(ちゅうこう)、除草、土寄せなどの作業ができました。』

これも現在では、農業用トラクターでできることなんでしょうけどね。
ところで、この農具、 “人力”とあるとおり、人の力でこれを動かしたんだろうか?馬
に曳かせるとかではなくて。そうだとすると、それは重労働だったろうな、と想像する
わけです。

(つづく)

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2015年2月22日 (日)

第714段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(42)~耕耘庫

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の耕耘庫(こううんこ)の中を見ている。

Imgp7641r

Imgp7640r

『三台除草機

明治初期、外国から紹介された代表的な農機具の一つです。播種後の中耕(ちゅうこう)
・除草や土寄せの作業の他に形の異なる爪を取り換えることで、簡単な耕起(こうき)、
畝(うね)切り作業などにも使われました。明治の末ごろ十勝でこの三畦用の除草機
が考案され、広く普及しました。』

 現在では、農業用トラクターに様々なアタッチメントを取り付けることで、同様のことが
できるのでしょうけど。その先駆けという感じの農機具ですね。

 それと、1枚目の写真の後方の壁に掛けられている農機具の説明が以下。


Imgp7642r

『田打転車(たうちころがりしゃ)

回転式除草機の原形で、水田稲作の中耕・除草用具でした。木枠の取ってを持って
歩きながら押し引きして回転させ、稲株の間に生えた雑草を抜き取り、同時に土をかき
混ぜました。
明治後期には、改良が加えられ、その後も二連式、三連式などさらに効率がよくなりま
した。』

現在だと、除草剤を撒いてしまって、こういうことはしないのかな?
何もしないと雑草が生えてきてしまって、その処理は大変でしょうからこういう用具が
開発されたんですね。

(つづく)


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2015年2月21日 (土)

第713段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(41)~耕耘庫

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の耕耘庫(こううんこ)の中を見ている。

 次は、以下の写真の手前にあるいくつもの棒の上に平らな箱が乗っているような
器具。その名も「タコ足」 (^^; 。

Imgp7638r

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『 タコ足 (水田直播機(ちょくはんき))

タコ足は、北海道独自の農具であり、水田直播機の一つでした。籾(もみ)の直播
(じかまき)は、育苗や田植え労力の節約のほか、移植による生育の停滞がないため、
収穫が早まり、寒冷地稲作で障害となる霜害を避けることができました。明治38年
(1905年)に屯田兵に考案され、ブリキ職人によって製作されました。種子函(はこ)から
タコ足のように16本以上の種子導管を伸ばし、種籾を落下させました。』

なるほど。苗を育てて田植えをするのではなく、水田に籾を直接播くわけですか。。。

Imgp7634r

因みに後ろに写っていたのは、「肥料播き機」。黄色の漏斗状の入れ物の中に
肥料を入れて播いたようです。

(つづく)


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2015年2月20日 (金)

第712段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(40)~耕耘庫

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の耕耘庫(こううんこ)の中を見ている。

Imgp7636r

Imgp7635r

『鬼ハロー

水田の砕土(さいど)と地均(なら)しに使われました。大正時代に回転馬鍬(まぐわ)
からヒントを得て、北海道で製作され、空知地方に広まりました。粘土質の土壌では
馬1頭または2頭だてで曳き、枠板上(わくいたじょう)に御者が乗って土のかたまり
を砕きました。水が堪(たま)った水田では水中を歩くことなく地均し作業ができました。
ふつう鬼ハローは2回掛けで砕土し、馬鍬で2、3回代掻(しろか)きをして仕上げまし
た。』

 うーん。。。
 説明書きを読んでも、どのように使われたか、今ひとつ分かりませんね。

(つづく)


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2015年2月19日 (木)

第711段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(39)~耕耘庫

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の耕耘庫(こううんこ)の中を見ている。

Imgp7627r

Imgp7626r

『プラウ

プラウは日本古来の和犂(わすき)に変わって、北海道に普及した畜力耕具です。
荒地の開墾などに使用し、牛馬に曳(ひ)かせ、撥土板(はつどばん)を利用し固まった
土を耕起(こうき)、反転させました。明治初期に西洋から北海道の函館に入ってきまし
た。新墾(しんこん)、再墾(さいこん)プラウ、心土プラウなどの種類があり、用途によっ
て使い分けられていました。大型プラウは、馬2頭から3頭で曳きました。』

 よく時代劇とかで農民が馬に和犂を曳かせて農地を耕しているシーンとかあります
が、これはその西洋版というわけですね。どこがどう日本のものと違うのか,よく分かり
ませんが、北海道で普及したということは、性能がよかったのでしょう。

(つづく)


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2015年2月18日 (水)

第710段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(38)~耕耘庫

 現在、網走にある『博物館網走監獄』の耕耘庫(こううんこ)の中を見ている。

Imgp7619r

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Imgp7622r

Imgp7624r_

Imgp7625r

『手押し豆播機(まめまきき)

大正の末頃、十勝で一輪車のついた手押しの豆播機が考案されました。機体を
支える車輪から、チェーンによって種子を落下させる目皿盤に回転を伝えて、種子
函から2,3粒の種子を等間隔に播種できました。また後尾には鉄製の爪(覆土爪)が
左右から突き出て土かけ作業もできました。』


車輪を転がしたときの力をチェーンを介して すぐばかさ歯車 を回して、回転方向
を90°変えています。
当時としても良く考えられた機構をもった農機具だったのですね。

(つづく)

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2015年2月17日 (火)

第709段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(37)~耕耘庫

 現在、網走にある『博物館網走監獄』を見学中。
 「つけもの庫」の横にある建物が、耕耘庫(こううんこ)。


Imgp7616r

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『11  耕耘庫

 農園刑務所として全国に有名な網走刑務所は、明治29年(1896年)に開墾された
農地は220町歩(ちょうぶ)(21,800アール)にもなり、農機具や肥料を入れておく倉庫
や、収穫された作物を入れる小屋が、このような板ぶきや草ぶきで10棟ありました。
 アメリカの近代的農業制度を取り入れていましたので、その技術は非常に進歩した
ものでした。』


Imgp7686r

Imgp7680r

「耕耘庫」というくらいなので、昔の農機具が展示してありました。それらは、明日以降
に紹介するとして、内部スペースの一角に鍛冶作業をしている展示がありました。

『鍛冶作業


鍛冶作業の際に火床(ほど)への送風用の道具として、鞴(ふいご)など様々な昔ながら
の鍛冶屋の道具が用いられていました。当時の鍛冶屋の製品は様々な生産用具から、
家庭用の庖丁(ほうちょう)やマサカリなどまで多種多様であり、どこの町や村にもあり、
農村や山村では農具や山林用具、漁村では漁具、炭鉱町では手掘りの採炭用具という
ように地域によって特徴があり、生産活動に密接に結びついていました。

北海道の野鍛冶らは、明治初期(1868年~)より在来の鋤(すき)や鍬(くわ)を製作する
ことに加えて、様式畜力農具のプラウやハローの普及により製作を手掛けなければな
らない事情が生まれ、求められる技術の幅も広がりました。

網走には、鍛冶業が大正時代(1912年~)には9戸あり、網走監獄では、網走外役所
設置当時から配役状況に鍛冶工が存在し、農具などの鍛冶製品の製造・修理が行わ
れていました。その当時の作業の中心が開墾、耕耘、土方などであったことから、開墾、
農作業に使われる農機具や土方作業に使われる道具の製造と修復が主な作業であっ
たことが推測されます。』

 農作業の他に、道具作りやメンテナンスも自分達でやっていた、というわけですね。
なんというか、サバイバルじみてきていますね。

(つづく)


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2015年2月16日 (月)

第708段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(36)~稲架(はさ)掛け

 現在、網走にある『博物館網走監獄』を見学中。

 「つけもの庫」の前の空き地スペース。ここに稲架(はさ)掛けの展示がある。

Imgp7615r

Imgp7614r

『稲架掛け

 刈り取った稲を干す時に使用する、木で組んだものを稲架(はさ)といいます。
稲架には、地方により種々の形式があり、呼称も、はざ、いねかけ、いなき、かかけ、
おだ、あし、など多様です。

 網走刑務所においても、住吉農場という、本所から26km程離れた泊まりこみの施設
で昭和3年(1928年)から水田15町歩(ちょうぶ)(45000坪)を作っていましたので、秋
の収穫時は、稲架掛けの風景が見受けられました。』

 上の写真にあるくらいの人の背丈くらいならよいのですが、地方によっては、はしご
に上らなければならないくらいの高さの稲架もあるようです。

 ただ、重労働ということから最近は少なくなっていますが、天日で干したお米は旨味、
粘りが格段に増す、というような話もあって、それを「売り」にして少量ながら稲架掛け米
を販売する農家さんもあるようですね。

(つづく)


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2015年2月15日 (日)

第707段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(35)~つけもの庫

 現在、網走にある『博物館網走監獄』を見学中。

 『旧釧路地方裁判所網走支部法廷復原棟』を見終えて、次が。。。
なぜか「つけもの庫」。

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『12  つけもの庫

 網走地方で野菜の自給耕作が始まったのは明治15年(1882年)で網走農業のはじま
りとなっております。網走分監でも創設時にまず野菜が栽培され、やがて二見ヶ岡や湖
畔農場の開墾によって穀類も生産され自給体制が整いました。

 野菜は季節の食膳に供され、秋になると収穫した大根を乾かして桶(3,000本)に
“たくあん漬”として大量に貯蔵し、この味は天下一の評判でした。』

Imgp7605r

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『つけもの桶  製作 明治42~45年頃(1909~1912年頃)
 材質 不明  直径 166センチ  高さ168センチ』

Imgp7609r
『たくあん漬け

十一月に入ると農場から馬車で運ばれてきた大根は水洗いされて丸太で組まれた
稲架(はさ)に架けられる。

やがて、それがほせてしなっこくなると、三千本も入る大桶に約九十キロの塩と同量
の糠(ぬか)で漬けこまれ、十数個の石で二百キロほどの重しがかけられる。

こうして三ヶ月ほどたつとちょうと食べ頃となる。

これがかつての「たくあん漬け」の方法であったが、現在は「一押し」という荒漬けで
水分を抜いたのち本漬けする方法がとられている。

大根の葉も乾燥させて、煮物や味噌汁の実として貯えられた。られた。

  桶の大きさ
   高さ 168センチ
   直径 166センチ』

 なんで、網走監獄に「つけもの」が出てくるかと思ったんですが、自給自足の生活
をしていたんですね。

(つづく)



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2015年2月14日 (土)

第706段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(34)~法廷復原棟

 現在、網走にある『博物館網走監獄』内の『旧釧路地方裁判所網走支部法廷復原棟』
を見学中。

 ここは「合議法廷」。

Imgp7587r

Imgp7581r

『合議法廷

 この法廷は、地方裁判所支部として重罪事件を扱い、3人の裁判官によって審理
されることから、合議法廷といいます。正面裁判官席の中央に訴訟を指揮する裁判長
が両隣に陪席裁判官が着席して裁判が行われます。この情景は検索官が証人尋問
を行っている場面が再現されています。』

Imgp7583r

Imgp7585r

 上の説明とほぼ同じことが書いてあるけど、一応文書化してみよう。

『第一号法廷<合議法廷>

 ここは、合議法廷です。重罪事件は、この法廷で3人の裁判官によって審理され
ます。
 傍聴席からみて、正面が裁判官席です。(中央に訴訟を指揮する裁判長。その両隣
に陪席裁判官が着席しています。)
 その手前に書記官と速記官が着席し、裁判の経過を記録するほか、裁判の補助をし
ます。

 左奥には廷吏(ていり)が着席しています。(法廷内の秩序維持を担当)
 証言台をはさんで左側が検察官席、右側が弁護人席です。通常はいずれも一人ず
つですが、事件の内容によっては複数の検察官が、また被告人の希望等によっては、
複数の弁護人が、それぞれ出廷することもあります。

 証言台の手前が被告人席で、拘置所から護送されてきた刑務官が同席しています。
 今、法廷では検察官が証人尋問を行っているところです。』

 TVで裁判が始まる前の様子が映るけど、そのときの裁判所はこういう感じですね。
つまり合議法廷なんですね。

(つづく)


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2015年2月13日 (金)

第705段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(33)~法廷復原棟

 現在、網走にある『博物館網走監獄』内の『旧釧路地方裁判所網走支部法廷復原棟』
を見学中。

 ここは「単独法廷」。

Imgp7572r

Imgp7568r
『単独法廷

 この法廷は平成3年(1991年)まで使用されており、比較的軽い刑罰(訴訟額では
140万円以下)無銭飲食・窃盗等を1人の裁判官によって審理されることから、単独
法廷といいます。

特に簡易裁判所では常に単独で行われることから頻繁に使用された法廷です。現在
法廷では被告人に対する人定質問がなされている場面が再現されています。』

Imgp7570r
もうひとつ「単独法廷」について説明書きがあるので見てみよう。

『 <単独法廷>

  この法廷は、釧路地方裁判所網走支部・簡易裁判所です。平成3年(1991年)まで
 使用されていたうちの一つで、単独法廷と呼ばれるものです。

  刑事裁判では、いわゆる重罪(死刑または無期。短期1年以上の懲役、若しくは
 禁固に当たる罪:殺人、放火など)については、原則として合議法廷(裁判官3人で
 構成)で審理されます。その他の罪については単独法廷(1人の裁判官)で審理しま
 す。特に簡易裁判所での審理は常に単独で行われることから、犯罪発生率の高い
 窃盗事件などのため、kの法廷は使用回数も多く、実際上重要な役割を果たしまし
 た。』

 へぇー、そうなんだ、という感じです。
 簡易裁判所も行ったことがないもんで(^^;。


(つづく)


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2015年2月12日 (木)

第704段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(32)~法廷復原棟

 現在、網走にある『博物館網走監獄』内の『旧釧路地方裁判所網走支部法廷復原棟』
を見学中。
Imgp7546r

『旧釧路地方裁判所網走支部法廷復原棟

 この建物では、裁判所建物内部の法廷、仮監置室、拘留質問室の移築復元したもの
をご覧になれます。

 これらの復元物は、平成2年(1990年)の釧路地方裁判所網走支部での合議事件取扱
廃止と旧庁舎解体に伴い、裁判手続きと行刑手続きとが不可分の関係にあることから、
当財団が譲り受け、保存するものです。

 建物の外観は、当博物館の時代設定に合わせて明治風にしていますが、内部の復元
ゾーンは築年代の昭和27年(1952年)当時を再現しております。

 各部屋やホールの配置・広さ・高さを元通りに復元した展示館で、どうぞ “裁判所の
空気 ”を体験してください。』

 裁判所の空気を体験。。。
 確かに裁判所なんて行かないからなぁ。
 ここに入ったとき、妙な緊張感
があったのを覚えている。別に自分が裁判を受けるわけ
でもないのにね(^^;。

Imgp7547r
↑館内案内図

 ちょっと読めないでしょうけど、
 中央のちょっと下がロビーで現在位置、
 その真っ正面が「合議室」
 合議室の向かって左が「単独法廷」、
 合議室の向かって右が「合議法廷」、
 トイレ
の右隣が「拘留質問室」、
 ロビーの左手、階段の下が「事務室」

Imgp7550r
↑ロビーの真正面。

Imgp7551r
↑合議室

Imgp7553r
↑同上
 ただ椅子が向かい合わせに置いてあるだけの部屋である。

Imgp7552r
『合議室

 合議裁判の途中で当事者から異議申立てなどがなされ、その場で即断できないような
場合に、3人の裁判官がこの部屋に入り合議しました。また、裁判官が法廷に入るときの
通路ともなっていました。』


 部屋、というより通路みたいですね。

(つづく)


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2015年2月11日 (水)

第703段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(31)~法廷復原棟

 現在、網走にある『博物館網走監獄』を見学中。
 味噌蔵を離れ、次に向かったのが『旧釧路地方裁判所網走支部法廷復原棟』。

 まぁ、監獄、つまり刑務所と関係ないわけではない、か。
 法廷で裁かれて、懲役となったら、刑務所に送られるわけだし。

Imgp7539r

Imgp7543r

Imgp7542r

Imgp7545r
『9  旧釧路地方裁判所網走支部法廷復元棟

 この建物は、釧路地方裁判所網走支部が新庁舎建設のため旧庁舎の取り壊しに
際して、単独法廷合議室、合議法廷、仮監置室および拘留質問室の部分を譲り受け、
復原、保存したものです。各部屋やホールの配置、広さ、高さが元通りであるのは当然
のこと、法廷内部の備品(机、椅子、照明器具、カーテンなど)についても、実際に使用
されていたものを展示しています。これらの各部屋は、昭和27年(1952年)から平成3年
(1991年)にかけて39年間用いられ、有名な「梅田事件」をはじめ、この地域で発生した
様々な事件がここで裁かれました。その結果、実刑判決を受けた被告人の多くは網走
刑務所で服役したのです。』

では、内部も見学してみましょう。

(つづく)


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2015年2月10日 (火)

第702段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(30)~味噌蔵

 現在、網走にある『博物館網走監獄』を見学中。
 味噌蔵の中の展示。見慣れない機械が多い。

Imgp7533r
左は二十五石桶、中央は速醸瓶(そくじょうかめ)。

『速醸瓶
  材料を仕込んで瓶いいれて、底から温度を加え発酵を早め、醸造期間を短縮
 させるために使用した瓶です。』

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右は殺菌釜。
『殺菌釜

 熟成された生醤油を約90度に加熱殺菌するときに使用した釜です。』

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左は粉砕機、右は洗瓶機。

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(つづく)


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2015年2月 9日 (月)

第701段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(29)~味噌蔵

 現在、網走にある『博物館網走監獄』を見学中。
 次は、味噌蔵。

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『8  味噌蔵

 経費節減のため自賄い(じかまかない)を要請される監獄では創立間もない明治25年
(1892年)に約100m2の工場が建てられて味噌、醤油が自給されました。

 ここに保存されている醤油桶は民間で使用されたものですが、当時刑務所で使用して
いたものと全く同じなので篤志家から寄贈を受けたものです。』

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↑これが醤油桶。下にあるとおり五十石桶。

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『櫂棒(かいぼう)

 味噌や醤油を早く発行させるために、樽の中のものを撹拌(かきまぜる)する時に
使用した棒です。』

 昔ながらの製法で作っているところは、この桶(樽)や櫂棒は現役、ですよね。
以前TVで見たことがあります。
 刑務所は、何でもやっていたんですね。まさか、味噌や醤油を作っていたとは。

(つづく)


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2015年2月 8日 (日)

第700段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(28)~動く監獄

 現在、網走にある『博物館網走監獄』を見学中。
 休泊所はもう一つある。切り妻屋根の茅葺きで、屋根が一端が直接地面に接触して
いる。

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↑休泊所の説明。昨日(第699段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(27)~動く監獄 )の
とほぼ同じことが書かれている。

『休泊所(別名 動く監獄)

監獄作業の種類は、基本的にいって農工芸でしたが、明治初期においては、瓦をつくり、
煉瓦をつくり、鉱山役夫など、汚れ仕事が懲役人にふさわしいという考えが支配してお
り工業の未発達な明治20年頃(1887年頃)までは、道路開削、石炭採掘といった産業
開発のブルドーザー的役割を果たしていました。

この休泊所は、丸太で組まれた屋根は茅葺きです。
どんなに監獄から離れたところでも、短期間で現地調達の丸太や茅で大急ぎで建築し、
作業が終わるまで、この小屋で寝泊まりしまた。』

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↑家の中央では食事を取っているシーンがマネキンで再現されている。

 囚人とはいえ、苛酷な労働環境です。

(つづく)


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2015年2月 7日 (土)

第699段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(27)~動く監獄

 現在、網走にある『博物館網走監獄』を見学中。
 次は、休泊所。

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『10 休泊所

  受刑者が塀の外に出て、日帰りできない作業をする場合は「休泊所」と呼ばれた
 小屋で寝泊りしました。明治24年(1891年)の網走から札幌へと続く中央道路開削
 工事では、延べ1,200人の受刑者が投入され、工事の進行にともない、休泊所を解
 体しては移動していきました。別名「動く監獄」と呼ばれ、後の厳しい監視と強制労
 働で知られる一般労務者の飯場(はんば)(たこ部屋)のつくりは、これを模したとい
 われています。』

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『罪囚のまくら

 明治五年(1872年)監獄則で罪囚のまくらは丸太を半分にした「半円木」を定め
 られたが 外役所や休泊所では手間を省いて一本の丸太のまま使われたことも
 あったといわれている。

 この方法はのちの「たこ部屋」にも使われて朝になると丸太の一端をたたいて
 一斉に起したといわれている。』

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 休泊所内部にもう一つ説明板があった。少し今までと言い回しが違うので、
こちらも紹介しておこう。

『 休泊所

 明治24年(1891年)の中央道路開削工事を始め、外役作業の時に囚人たちは、
簡単に建設解体ができる小屋で寝泊まりしました。

これを休泊所仮監といいました。

柏布団1枚で1本の丸太を枕にしているのは、朝起床時間になると丸太の端をたた
いて起こしたためです。

睡眠時間が4~5時間で睡眠不足の囚人たちを起こす最良の方法だったといわれ
ています。

このような労働形態が後のタコ部屋労働につながっていったのです。』

 なんて苛酷なんでしょう。
 外に出たら、お風呂もないでしょうし。
 北海道の開削には、囚人たちの力が多分にあった、ということですね。
 その意味では、感謝をしないといけないのかもしれませんね。

(つづく)


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2015年2月 6日 (金)

第698段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(26)~官舎

 現在、網走にある『博物館網走監獄』を見学中。
 次は、旧官舎。

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『7  旧網走刑務所職員官舎(再現構築物)

  この建物は、通称「看守長屋」と呼ばれた網走刑務所の職員官舎を再現したもの
 です。明治45年(1912年)に建てられ、網走刑務所の近代化工事の始まった昭和
 50年代(1975年)まで網走川の両河畔に176戸立ち並んでいました。

 1軒の広さは9坪と狭く、間取りは現在でいう1LDKです。拝命されたばかりの看守
 が与えられていた最も狭い間取りの官舎で家族が生活していましたので、最小限
 の生活用品と機能的な生活の様子がうかがえます。

 官舎では網走刑務所での勤務を終えて帰ってきた看守の父と夕食の準備をしてい
 る母の側で、子供達が夕食を楽しみにしている場面が再現されています。』


 かなり狭いという印象です。この官舎で網走の厳しい冬を過ごすのは大変そうです
 ね。外には五右衛門風呂がありましたが、冬はどうするんでしょう?

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(つづく)

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2015年2月 5日 (木)

第697段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(25)~網走刑務所水門

 現在、網走にある『博物館網走監獄』を見学中。
 裏門(
第696段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(24)~網走刑務所裏門 )の隣にあるの
がこれ。水門である。


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『6 網走刑務所水門(再現構築物)

  網走刑務所の前方は網走川が流れています。この川を利用して、網走刑務所
 では生活物資を運び入れたり、農場へ肥料を運ぶ等、貴重な水路として活用し
 ていました。その出入口として、大正13年に水門を受刑者の手により完成させ
 ました。

  煉瓦の正門着工時に造りあげた水門は、その後、昭和31年(1956年)まで活発
 に利用されていましたが、記念橋を撤去した際に封鎖されました。』

 当時としては、陸上交通より川を利用した方が効率が良かったんでしょうね。

(つづく)

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2015年2月 4日 (水)

第696段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(24)~網走刑務所裏門

 現在、網走にある『博物館網走監獄』を見学中。
 旧庁舎を出て散策すると、すぐ煉瓦造りの門に出くわす。

 網走刑務所の裏門である。


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↑上の写真の反対(裏)側。

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『5 網走刑務所裏門

  この門は網走刑務所赤煉瓦門塀製作開始の大正8年(1919年)に一番最初に
着工した門です。

その後5年かけて受刑者がこつこつ煉瓦を積み上げ大正13年(1924年)に延長
1,080mの赤煉瓦塀を完成させました。

以来平成5年(1993年)の9月まで70年間にわたり網走刑務所裏門として受刑者
が塀の外の作業場(農場・養豚場等)に出かける時に通るのがこの門であり、いか
つい正門とは違い、この門をくぐり抜けると外に出られるという、受刑者にとっては
解放感を味わえる門だったことでしょう。

老朽化のため門を建て直す際に、博物館網走監獄が譲り受け復元致しました。』

 裏門とはいえ、なかなか立派ですね。登録有形文化財に指定されています。

(つづく)


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2015年2月 3日 (火)

第695段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(23)~監獄と赤煉瓦

 現在、網走にある『博物館網走監獄』を見学中。
 ここは、旧庁舎内。

 煉瓦や瓦が展示してある一角がある。


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『監獄と赤煉瓦

 れんがを漢字で書くと煉瓦となりますが、漢字のふるさとである中国では塼「せん」
と呼ばれています。
煉瓦という名前は、明治時代の人々が考え出した日本語なのです。煉はねりあげる、
きたえるという意味があります。

「火で焼き上げて強くした瓦」ということで煉瓦という言葉が生まれたのです。

赤煉瓦が初めて国産化されたのは、1857(安政4年)年になってからです。長崎でオラ
ンダ人の指導によって焼かれました。

わが国が西欧と比較し、最も遅れている部分として、獄舎の改善が力説されていました
ので、明治3年(1870年)囚獄権正小原重哉がイギリスの植民地監獄(香港のビクトリア
ゼール)の視察に赴き、そこで見た赤煉瓦の監獄を写生してきたところから、監獄での
煉瓦製造が始まり、明治20年(1887年)わが国最大の赤煉瓦監獄、東京集治監(小菅
嵌合)の実現隣、全国都道府県に広く赤煉瓦監獄が普及していきました。』



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『網走監獄の瓦・煉瓦

 明治42年(1909年)、瓦及び煉瓦工場を創設し、敷地内の良質粘土を使い、本州
の監獄から技術者を受け入れて火災で焼失した建物の復旧用に瓦や煉瓦を製造
しました。』

 なるほど。瓦や煉瓦は自前だったんですね。


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『めがね石

 庁舎の煙突取り付け口にはめこまれたもので、彫刻が施されています。
材料の軟石は、網走監獄敷地内から算出したものです。』


 さて。
 一通り旧庁舎を見たので、ここを離れ、外の展示を見に行こう。


(つづく)

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2015年2月 2日 (月)

第694段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(22)~網走刑務所が現在の位置にある訳

 現在、網走にある『博物館網走監獄』を見学中。
 ここは、旧庁舎内の典獄室。

 典獄(てんごく)とは、刑務所の最高責任者のこと。その辺りの説明は、

第690段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(20)~旧庁舎内の典獄室
を参照 されたい。。。
というのは、昨日と同じ書き出し(^^;。

 この写真は、典獄室に展示されていたもの。
初代典獄大井上輝前(おおいのうえてるちか)である。


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『釧路監獄署 網走 囚徒外役所(しゅうとがいえきしょ) 初代典獄 大井上輝前

 明治23年(1890年)網走囚徒外役所が網走村に設置されて現在で124年の時が
経過した。

設立当所の最高責任者が大井上輝前である。人口631人の小さな漁村に設置されて
から囚徒の労働力により特に北海道中央道路延長228キロの開削など北海道の基礎
的開拓は監獄の囚徒によるものである。

その重要な任務を果たした初代典獄大井上輝前は明治23年(1890年)3月、自ら馬に乗
り、釧路から網走周辺を視察、丘陵を背に網走湖畔で網走川が大きく曲がる平地を
道路開削の起点と判断し、一度の視察で網走刑務所の設置場所を決めたのである。
彼の判断が網走刑務所の歴史の濫觴(らんしょう)※である。

大井上は、嘉永元年(1848年)10月22日四国伊予大洲(おおず)、現在の愛媛県喜多郡
大淵町で生まれた。14歳で西洋学修行に函館に赴き、その後、江戸、薩摩に遊学、長
崎では蘭学も修めている。15歳でサンフランシスコへ渡り留学、貴重な国際感覚の持ち
主として開拓使大主典、函館四等弁官(通訳)などを歴任し、明治17年(1884年)37歳の
時に、北海道集治監の典獄としての人生が始まった。

釧路監獄開庁にあたり、釧路監獄看守171名の全国公募の英断など名典獄としての功
績と、囚人に初めてベースボールを教えた人物など逸話は豊富であり、47歳で依願免
職が下されるまで愛の典獄として北海道集治監に残した精神的遺産は計り知れない。』



※濫觴(らんしょう)…《揚子江のような大河も源は觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細
流にすぎないという「荀子(じゅんし)」子道にみえる孔子の言葉から》物事の起こり。始
まり。起源。

 網走刑務所の位置を決めたのは、この方なんですね。
 確かに地図を見ると、(
第676段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(4)~網走刑務所  
の一番下の写真参照)  網走川の曲がったところにありますね。網走刑務所は。

 まぁ。博物館で、ここまで説明書きをまじまじと読む人もいないと思うので。。。(^^;。
 「博物館網走監獄」に行ったことのある人もない人も、読んでくれればよいと思いま
す。

(つづく)


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2015年2月 1日 (日)

第693段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(21)~囚人道路のいわれ

 現在、網走にある『博物館網走監獄』を見学中。
 ここは、旧庁舎内の典獄室。

 典獄(てんごく)とは、刑務所の最高責任者のこと。その辺りの説明は、

第690段:北海道ツーリング記(2014/7/30)(20)~旧庁舎内の典獄室
を参照 されたい。

 網走刑務所の前身、北海道集治監網走分監の初代分監長の写真が展示されて
あった。


 Imgp7434r

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『 網走監獄初代分監長 有馬四郎助(ありましろうすけ)

 明治24年(1891年)8月22日に北海道集治監網走分監の初代分監長として有馬
四郎助は着任した。鹿児島県にうまれ、京都府巡査、鹿児島県警部を経て、22歳
で北海道集治監看守長兼書記に就任、指揮能力抜群の有馬は27歳の若さで分監
長(奏任(そうにん)官※)という異例の抜擢で就任した。

着任後の有馬は、網走監獄設立理由である北海道中央道路開削工事の最高責任
者として、道路工事を13工区に分け、1区間に看守長1名監督補助2名、看守12名で、
200名の囚人を監督した。

中央道路開鑿(かいさく)工事の8ヶ月に使役した囚人総数は1,115名にのぼり、その
陣頭指揮にあたったのが有馬である。

この工事は、交通不便な山中、医療の不足と困難な食糧補給、水腫病の続出といっ
た苛酷な条件のもと、至上命令の期限である雪の降る前に多くの犠牲を出しながら
道路を貫通させた。この道路が、現在の国道39号、333号の一部と重なっており、開
削から100年以上がたってもなお囚人道路と呼ぶ人がいる。』

※奏任…明治憲法下における官吏任命形式の一。内閣総理大臣の奏薦
 (そうせん)によって任命すること。

 この記述に関わる時代背景が、「博物
館網走監獄」のHPに
“監獄秘話 「囚人が開いた土地」で書かれています

http://www.kangoku.jp/data2.html

 この有馬四郎助という人も随分と優秀な人だったようですね。
 それにしても、現在の北海道の開発の礎を築いたのが、囚人だったというわけ
ですね。

(つづく)


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