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2014年10月11日 (土)

第580段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/3)(14)~明礬(みょうばん)の由来

 明礬地獄湯の花採取場
第579段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/3)(13)~明礬地獄湯の花採取場 参照)から少し坂を上ったところに  “湯の里” という施設がある。

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↑ “湯の里 ” にある案内看板(クリックすると拡大します)

 
 「薬用 湯の花」の製造技術が重要無形民族文化財となっており、そのための湯の花小屋がある。 他には当然ながら “湯の里”の名前の通り、温泉はもちろんのこと、食事処、売店などもある。

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↑明礬(みょうばん)の由来を記す看板

『明礬の由来

 寛文4年(1664年)、肥後国八代(熊本県八代市)出身の浪人渡辺五郎右衛門
が、速見郡鶴見(別府市鶴見)に来て、明礬製造を思い立った。

 彼は、立石村(別府市南立石)と鶴見村の小倉(別府市小倉)で明礬製造を試み
たが失敗に終わった。その後、五郎右衛門は長崎の薬種問屋に奉公し、ここで中
国人から明礬の製造の秘伝を聞くことができた。そこで、鍋山、湯山、野田村
(いずれも別府市内)で、大々的に製造開始した。これが日本の明礬製造の始まり
である。

 ところが、中国から大量の明礬(唐明礬)が輸入されるようになり、五郎右衛門の
明礬山は経営難となって製造を中止しなければならなくなった。たちまち明礬山は
荒れ山となってしまった。

 その後、享保10年(1725)に、天領の小浦村(日出町平道)の庄屋・脇儀助(脇蘭室
の祖父)、現脇屋社長の祖先が、森藩領の鶴見村で、同藩に運上金(事業税)を払
って、明礬製造を再開した。さらに、同12年には、野田村明礬山でも大々的に製造
を行った。ところが、五郎右衛門の時と同様、唐明礬の大量輸入のため、またしても
経営困難に陥った。

 そこで儀助は、享保14年(1729)に大阪商人の近江屋らと共に唐明礬の輸入禁止の
願いを幕府に訴え出た。さらに幕府の和薬吟味方・丹波正伯に、儀助が製造した
明礬の品質検査を願い出た。この品質検査により儀助が製造した明礬は、唐明礬
より高級であることが証明されることとなった。

 これにより享保15年(1730)、幕府は唐明礬の輸入を禁止し、日本国内で生産され
る明礬のみを使用するよう命じた。儀助らは、明礬を幕府の専売品とし、江戸、京都、
大阪、堺に明礬会社を設けて取引するよう願い出た。

 その結果、享保19年(1734)に明礬会社の設置が幕府から認められたのである。こ
うして儀助らは、日本国内の明礬の製造、販売権を独占することとなり、年間の収益
は約一千両に及んだという。

 当時、明礬は、薬、火薬、染め物、鍛冶溶接、絵画など多方面に使用されていた。』

(つづく)


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