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2014年9月

2014年9月30日 (火)

第569段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/3)(3)~野地橋

 現在は、西椎屋にいるのだが、ここで一番近い文化財級の石橋がないか調べると、「念仏橋」というのが、国登録の文化財だったので、これだけ見に行こう。

 その途中、「野地橋」という一連の石橋があったので、立ち止まって写真を撮る。
 特に周りには説明書きなどはなかった。

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↑分かりやすい看板(^^;。

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↑「のちはし」と書いてあるのだろうか。 

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 「念仏橋」に行こう。 ここから1.8kmだ。

(つづく)


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2014年9月29日 (月)

第568段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/3)(2)~西椎屋の大銀杏

 昨日も行ったが、もう一度西椎屋へ向かう。

 国道387号線(R387)を、昨日は右折したが、今日は途中で左折して西椎屋の集落に入る。

 坂道を下りたところで、「西椎屋の大銀杏」の文字が見えたので、そのままさらに下る。

 この集落は、昨日マチュピチュ展望台から見えた集落だ。

 その一角に「西椎屋神社」があり、その境内に樹齢1300年という大銀杏の木がある。

 確かにそのくらいの年月が経っていそう。東京の街路樹の銀杏とは大きさが違う。

 秋に銀杏の葉が黄色く色づくと綺麗なのだろう。
 今の時季は、青々とした緑の葉だった。

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↑西椎屋神社の入口

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『町指定天然記念物
 (昭和50年(1975)5月23日指定)

  西椎屋 大銀杏

  樹齢約1300年と伝えられ県下最大(根回り13メートル 樹高約40メートル)の
 公孫樹で幹に点在する乳房様の気根が下がっており、『母乳促進剤の効果が
 ある』とお参りする人も多い。

                             院内町教育委員会』


 その木のすぐ下に湧水がある。
 これは、飲料水やご飯を炊くのにちょうどいい。多くは持てないが、水筒とペットボトルに計2Lくらい確保した。

 8:55出発。
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 ↑参道脇にある湧水

(つづく)


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2014年9月28日 (日)

第567段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/3)(1)~道の駅いんない

 5:15頃起きる。5時ではまだ暗い。

 すぐに撤収準備。

 道の駅に野営しているから、早くテントを片付ける必要がある。

 6:20にはテントなどの荷物の撤収をほぼ終え、朝食のサンドイッチなどを食べながらラジオのニュースを聞く。

 天気予報では、今日の九州地方は晴れ。大分県は最高気温22~24℃。紫外線に注意、だそうだ。

 
 7:50、パッキング完了。「道の駅いんない」出発。

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↑本館とトイレの間をつなぐ屋根のあるところに野営させてもらった(^^;。

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↑「石橋の里院内」の文字のあるところは、石橋をイメージしたモニュメント。

(つづく)


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2014年9月27日 (土)

第566段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(23)~本日の宿は。。。

 さて。鷹岩橋と富士見橋をそれぞれ見て、現在時刻16:26。
 もう観光はこれくらいにして、風呂と宿となる場所を探さないと。。。

 結局今日の作戦はこうだ。

 泊まる場所は、「道の駅いんない」での野営。トイレと本館の間くらいのところにテントを張ればなんとかなる。無論テントを張るのは、お店が閉店した18時以降。

 お風呂は、道の駅から約5km強のところにある余温泉。

 食材は道の駅から直線で3.5kmくらいのところにある、安心院(あじむ)の街にローソンがあることがハンディGPSから分かったので、風呂から上がったらそこに買いに行く。

 では、まずお風呂に入ってこよう。

 17:10頃、余温泉に到着。


 入浴料は市内の人は250円、市外の人は、300円也。300円でも十分安い。
 番台前の券売機で券を買う。
 お風
呂は、正面の扉をあけて、スリッパに履き替え、下に下りる

 女湯、次に男湯が現れる。

 脱衣所はかごに荷物を入れる方式。100円リターン式のロッカーもあるが、大きさはそれほど大きくないので、貴重品を入れるのにいいだろう。

 脱衣所は、
  洗面台3 (水しかでない)
  扇風機1
  ドライヤー1
 

 お風呂は
  カラン5
  内風呂と外(露天)風呂があるが、内風呂は熱い。43℃くらいある。外風呂は入らなかったが、脱衣所の張り紙によると37~38℃位らしい。
 

  入っていると、60歳くらいの人に声をかけられる。こちらが旅人で東京から来たことなどを話す。彼の話では、安心院では、都会からの農村体験を受け入れていて、北九州市、尼崎市、広島市、大阪市、京都市などの小・中学生が2泊3日でよく体験学習に訪れるということだった。その際、お風呂はここの温泉にも入りに来るという。そういう場に出くわすと、温泉が子供達だらけでちょっと騒がしいだろうな。

 

 風呂から上がってロビーでTVを見る。明日の天気を確認すると、明日も晴れるようだ。最低気温は13℃くらい。最高気温は、22~25℃くらい。紫外線に気をつけろ、ということだった。

 

 さて、風呂から出てきて、ポメラで日記をつけて、現在19:11。

 

 一度、「道の駅いんない」に戻る。テントを張ろうと思っている東屋(というより屋根付きの通路なのだが)に誰か野営していないか確認したが、誰もいなかった。まぁ、あまりここで野営しようと考える人はそうはいないだろう。

 そのまま、安心院のローソンに向かう。行く途中、道の駅の2軒隣にスーパー、「セルフおの院内店」があるが、すでに閉まっている。おそらく、18時か19時には閉まってしまうんだろう。惜しかった。近くで食材が買えるのなら、それにこしたことはなかったのだが。

 ローソンに到着し、今日の夕食を買おうと思うが、そこはコンビニ。食材の種類は少ない。結局暖めるだけの筑前煮にする。それと野菜としてキャベツ千切り、それに
ビール。サントリー和膳500mLにした。また、明日の朝食用のサンドイッチ、ヨーグルトも買う。

 元来た道を戻る。

 「道の駅いんない」に着いたのは、20:20頃。昨日よりちょっと遅い。

 明日の撤収を早くするため、テントを張らずに野営できないか考えたが、夜でも不特定多数の人がトイレ利用で来るかもしれないことを考えると、それは難しそうなので、やはりテントを張ることにした。
 

 21時前にはテント設営を終え、食事の用意。といっても、ご飯を炊くのと、筑前煮のレトルトを暖めるだけだ。

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↑今日の夕食紹介(^^;。 自分で言うのもなんだけど、なんか質素だね(^^;。

 明日飲む紅茶を作りおきしたあと、寝る。テントに入ったのは、23時頃。
 キャンプしているとは思えないほど遅い就寝だ。
 ラジオのニュースを聞いて、寝たのは、23:20頃だった。
 

【5月2日データ】
オドメーター:70603.4km
5月2日の走行距離:89.4km
万歩計:12,782歩(8.9km換算)

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2014年9月26日 (金)

第565段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(22)~富士見橋

 鷹岩橋の先にまた橋が見える。
 今度は三連アーチで、市指定文化財の富士見橋だ。

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↑橋の上から見える風景

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↑橋の上から見える風景(上の写真の反対側)

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↑富士見橋の説明看板。読んでみよう。

『 富士見橋

 石橋と柚子のまち院内

 富士見橋  FUJIMI-BASHI(市指定有形文化財)
 所在地   宇佐市院内町斉藤(恵良川)
 架設年   大正14年(1925)
 石工     松田新之助  吉村万太郎
 橋長     48.1m
 橋幅     4.5m
 橋高     14.0m
 連数     3

 細く長い橋脚を持つ鳥居橋や荒瀬橋とは異なり、その太い橋脚から重厚感を
醸し出す石橋で、橋上より由布岳(豊後富士)を眺望できることから富士見橋と
いう名がついた。

 大正13年、工事半ばにして大音響とともに崩落をしたが、翌年、石工松田新
之助が名工としての意地と信念で私財を売り払ってこの橋を完成させている。』

 私財を売り払って橋を造るとは。。。松田新之助という人物、すごいな。

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『 名工・松田 新之助
  -石橋づくりにかけたロマン-
  1867~1947(慶応3年~昭和22年)

 「石橋の貴婦人」と称される鳥居橋(県有文)や県下初の有料橋であった荒瀬橋
(市有文)など、院内地域に十数基もの石橋を架設したのが別名「石橋王」と呼
ばれる松田新之助です。中津市の耶馬溪橋や羅漢寺橋(共に県有文)も彼の功績
で、新之助は石工棟梁として地域の交通路拡充に努めました。

 彼は慶応3年(1867年)10月17日、現在の宇佐市院内町景平に生まれました。関西
でアーチ設計の技術を学び、帰郷後、明治40年(1907年)~昭和10年(1935年)に引
退するまでの28年間に渡って、院内の地形に合った石造アーチ橋の架設に情熱を
注ぎました。

 なかでも、特にこの富士見橋(市有文)の架設については、松田新之助の名工とし
ての意地と信念を感じさせるエピソードが残っています。

 
 1924年(大正13年)、棟梁・松田新之助は、副棟梁・吉村万太郎らとアーチ部の拱
環石を積み終え、近くで昼食をとっていたところ、突然の大音響とともに橋が無残に
崩落してしまいました。新之助は田畑山林などの私財を売り払い、資金を集めて翌
年再び富士見橋架設を決意します。新之助は大正14年(1925年)完成予定の町内
最長を誇る御沓橋(県有文)の架設工事も請け負っている最中でしたが、寡言実行・
信念貫徹、一気にこれらの石橋2橋を完璧に成し終えたのでした。

 これは人々の生活や地域の発展のため、石橋づくりに命を燃やした石工の “魂”
を伝えるエピソードとして胸をうってやまず、現在まで語り継がれています。

 ※写真は荒瀬橋(宇佐市院内町副) 石工:松田新之助

 写真左: 荒瀬橋 “渡り初め” 大正2年(1913年)
 写真右: 荒瀬橋補修工事 昭和13年~14年(1924~1925年)
       ※洪水による破損のため、大規模な補修実施  』

(つづく)


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2014年9月25日 (木)

第564段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(21)~鷹岩橋

 一度、「道の駅いんない」へ戻る途中、石橋を見つけた。国登録の文化財だという「鷹岩橋(たかいわばし)だ。

第559段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(16)~道の駅いんない

に道の駅で撮影した石橋マップがあるけど、その中央付近に書かれている。解像度の問題で文字まで読めないかもしれないけど(^^;。

その「鷹岩橋」は一連アーチの橋だ。普通の生活道路にかかる石橋が国登録の有形文化財になっている。

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『国登録有形文化財

  鷹岩橋(たかいわばし)


  所在地 宇佐市院内町斉藤(恵良川)
  架設年 昭和3年(1928年)
  石工   佐藤半次郎
  橋長   40.50m
  橋幅   4.70m
  橋高   16.30m
  連数   1

  旧県道に架かる、院内町で最も長い27mの径間を持つ石橋。
  架設以来、日出生台演習場に続く道として活躍しました。
  40mの道を1連のアーチで支えるこの優雅な橋は、演習場へ向かう多くの
 軍馬車輌を運んだ力強い橋でもあります。』


 この説明書きとは近くに別に碑が立っている。

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『 石工顕彰碑

  石橋にロマンを架けた男たち

  アーチ型石橋の築造技術は江戸初期にヨーロッパから長崎に伝わり、
  九州に広がったとされる。

  院内町は深い渓谷の地形上、田畑の石垣や水路橋が必要で、古くから
  石積みの技術を必要としていた。

  これらの技術を生かして江戸時代末から昭和の中ごろまでにわたって
  架けられた石橋は七十五基が現存し、日本一の数を誇っている。

  ここに、石橋にロマンを架けた石工たちの業績をたたえてその名を永く
  後世に顕彰する。

         平成十七年(2005年)  三月
                      院内町  』

(つづく)


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2014年9月24日 (水)

第563段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(20)~ぬくみの高架橋

 今日はどこで野営しようか
 安心院(あじむ)の方まで国道387号(R387)を北上して戻れば、安心院温泉センターというところに旅行村がありキャンプ場が併設されている、と地図にある。

 泊まる場所と風呂が一緒に確保できるのは大いなる魅力ではあるが。。。

 とりあえず来た道を戻るとして、その前に今いる場所から少し進んで西椎屋を橋の上から眺めてみよう。

 「ぬくみの高架橋」というところまで行って路肩にオートバイを停め、下を眺めてみる。
 結構高いぞ。

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↑この写真の目線を下にさげると…

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↑こんな感じ。 鉄橋の影が見える。写真だと分かりにくいけど、結構高い。
 中央付近に自分の影が映っている(^^;。


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↑上の写真の反対側も撮ってみた。

 のぞき込んでいると結構怖い。

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(つづく)

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2014年9月23日 (火)

第562段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(19)~院内案内看板

 その西椎屋のマチュピチュが見下ろせるところに院内の案内看板が立っている。

以下の写真はクリックすると拡大します。
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 この案内看板によると、現在地は “宇佐のマチュピチュ展望所”となっているけどね。

 現在時刻は15:30。
 時間からして、今日は院内のどこかで野営するしかなさそうだ。
 案内看板を見ると、温泉の位置も示してある。

 余温泉は、市外の人でも300円か。安いな。

 さて、ここを出発しよう。15:36出発。

(つづく)


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2014年9月22日 (月)

第561段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(18)~西椎屋のマチュピチュ

  「道の駅いんない」で知ったのだが、この近くに南米ペルーにある空中都市マチュピチュに似た風景があるというので行ってみることにする。

 国道387号線(R387)を南下していくと、マチュピチュの文字の看板と共に右手に行く道があるので、右折する。そのまま坂道を登りきると、そこが展望台。15:15頃到着。

 展望台と言っても、駐車場やきちんとしたデッキなどがあるわけではない。訪れた人は、路肩に車を停め、道端からその景色を見ることになる。もっとも交通量はほとんどないため、道端で景色を見ていても、危険ではない。

 案内看板があった。

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『マチュピチュ出現!?

 ここから望むと、西椎屋集落の人が秋葉様(火伏せの神)と呼ぶ円錐形の
山や棚田の石垣や家屋の眺めが南米ペルーの世界遺産に登録され空中
都市と称される「マチュピチュ」に似ていませんか?特にマチュピチュの山
ワイナピチュや石造の城壁にそっくりである。

 また、峡谷を挟んだ一帯の眺めは、国の名勝「耶馬溪」の中の「椎屋耶馬」
とも呼ばれ紅葉のシーズンだけでなく四季折々の景観が楽しめます。

 西椎屋集落には、西椎屋の滝本堂「大龍寺の梵鐘」があり、戦時中に供
出されていたが、福岡県芦屋市で偶然発見され、地区民の願いによりふる
さとに帰郷した逸話がある。

 また、椎屋神社の境内には、樹高30m、胸高幹囲10.5m、根回り13mもある
「大銀杏」がそびえ樹齢約1300年とも言われている。

 幹には乳房様の木根が下がっており、表皮を削り取って煎じて飲むと乳
が出るようになると信じられており現在もお参りするひともいるという。

 共に、宇佐市有形文化財となっている。』


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↑西椎屋のマチュピチュ


 うん。確かにマチュピチュの景色に似ている…かな。
 ただ、写真を撮ろうとすると、手前の国道の街灯が邪
魔だな。まさかなくせ、とも言えないんだけど(^^;。

(つづく)


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2014年9月21日 (日)

第560段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(17)~道の駅いんない

 「道の駅いんない」のオオサンショウウオが飼われている大きな水槽の前に食事処「柚子の里」がある。

 ここで昼食をとろう。
 「しし味噌朴葉(ほおば)焼きセット」1,200円也。

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 昼食にしては、ちょっと値段が高いかな。まぁ、観光地値段だから仕方ない。
 味はまあまあ。

 食事処から出てきて、現在14:48。
 この道の駅周辺を散策してみよう。
 14:58頃、「道の駅いんない」発。

(つづく)

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2014年9月20日 (土)

第559段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(16)~道の駅いんない

 現在、「道の駅いんない」にいるのだが、この院内、日本一の石橋の町だそうだ。道の駅の建物の前に、石橋をイメージしてモニュメントがある。

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↑「道の駅いんない」
  写真の中央部左が石橋をイメージしたと思われるモニュメント

 中に入ると、その石橋を紹介したパネルがあった。

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↑クリックすると拡大します。

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『日本一の石橋のまち・院内
  -地勢と水系と匠たち-

  院内町は日本一を誇る石橋の町です。その数74基。なぜ、これだけの
石橋が院内町に残っているのでしょうか? そしてどんな人達が架けたの
でしょうか?

  町内に石造アーチ橋が多いのは、深い谷に集落が点在する上に、川
が急流で木橋では流されてしまうので丈夫な石橋が求められたためです。
細く高い橋脚が院内町の石橋の特徴です。

  また、院内では谷あいの棚田の石垣や水路をつくるため、石を加工し
たり、積み上げる技術に熟練した人がたくさん存在しました。
名棟梁(とうりょう)と呼ばれた松田新之助に代表される院内で育まれた
匠のわざが「日本一の石橋のまち」をつくった大きな力となっています。

 ふだんは足元にあってなかなか気づかない石橋。視点を変えじっくりと
見上げたとき、石橋は、わたしたちに語りかけてくれます。石橋のアーチ
は、人と人をつなぐふれあいのアーチであることを…。』

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『石橋の石の重さはどのくらいあるだろう?

 土岩屋橋の拱環石の重さは?

 土岩屋橋の拱環厚(拱環石の厚み)は、90cmあり、町内一の大きさである。
一つの拱環石の重量を計測してみる。
 形は、四角錐台で、表面に見える範囲の台形は,奥行きが73cmであった。

  上底:52cm
  下底:47cm
  高さ:90cm
  奥行き:73cm
 

 体積は、
  ((52+47)×90÷2)×73= 325,215cm3

 土岩屋橋の拱環石に使われている岩質は、耶馬溪溶結凝灰岩特有の白め
石である。同質の岩のかけらを拾ってきて、その比重を計測したら、1.9であった。

 したがって、拱環石1個の重さは、

 325,215cm3 × 1.9(g/cm3) = 617,908.5g ≒ 617.5kg ≒ 600kg

 お米1俵は60kgであるから、ゆうに10俵分以上もある。

 土岩屋橋の拱環石の個数は、まだ、未知数であるが、当時の架設にかかわっ
た人々のご苦労は、計り知れないものがある。

(以下略)』

 1個600kgある石を組んで橋を仕上げていくのは、大変な労力だったと思います。


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↑クリックすると拡大します。

『石橋のメカニズム
  -石拱橋の原理-

 院内町は、眼鏡橋と呼ばれるアーチ橋が多くあります。院内の地形にあった石造
アーチ橋は、重い荷を支える力も強く、耐久性にも優れています。

 ここでアーチ橋の構造を説明してみましょう。アーチは、主に圧縮力で荷重を支え
る構造なので、アーチの両端では、アーチの力が斜め方向に作用して橋台を押して
います。そのために橋台は下の方向や水平方向に大きな力がかかります。ですから
両岸の基礎工事にも、当時の技術の粋を尽くしています。』

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↑中央の石を「要石(かなめいし」といいますね。

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『名工・松田新之助
 -石橋づくりにかけたロマン-

 「鳥居橋」「荒瀬橋」など、院内町を代表する石橋を12基も架けた名棟梁が
別名『石橋王』の松田新之介《1867~1947》です。関西でアーチ設計の技術
を学び、院内町の地形にあった石造アーチ橋の架設に情熱を注ぎました。

 1924年(大正13年)架設中の「富士見橋」は工事の途中、突然の大きな音
とともに崩落。しかし新之助は私財を売り払い、名工としての意地と信念で
翌年見事に完成させます。日本一の石橋づくりに命を燃やした『石工(いしく)
の魂』を現在に伝えるエピソードとして私たちの胸をうってやみません。』

 下の写真は、架設途中の龍森橋(現在無) 昭和24年(1949)頃

なお、文中、松田新之助が “新之介”となっている箇所があるが、Webで調
べると、「新之助」が正しいようだ。

 さて。道の駅を見るのはこれくらいにして、ここでお昼ご飯でも
食べよう。

(つづく)


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2014年9月19日 (金)

第558段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(15)~オオサンショウウオ

 一通り羅漢寺の写真を撮って、登ってきた道を降りる。下りだと、5分くらいで降りてしまった。

 時刻は現在12:38。
 お昼をどこかで食べよう。宇佐市方面に抜けることにするか。羅漢寺からだと約20km。時速40kmでも30分もあれば、着くはずだ。

 ツーリングマップルで確認して、「道の駅いんない」があるので、そこで何か食べることにした。

 12:45出発。
 国道500号(R500)を国道387号(R387)方面へ走る。途中から幅員が減少し1.5車線くらいになった。しかし、対抗車はまったくなし。道幅が狭い上、かなりのワインディング。ふつうは車では通らないだろう。オートバイなら快適だ。昼ならば、ね。夜は街灯が一切ないから、怖いと思う。

 ツーリングマップルには、「くじゅうの山々を望む」なんて書いてあるけど、展望台や駐車場がある訳ではないので、景色を見る余裕なし。

 13:24頃、「道の駅 いんない」着。
 ここ院内は石橋の町。少なくとも75の石橋があるという。

 道の駅に入ると、オオサンショウウオが飼育されている水槽がある。その大きさにびっくり。それなのに、目が点のように小さいのが、ユニークで愛嬌がある。体の色が岩と同化してるんだな。

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↑看板に「オオサンショウウオ」の文字が。。。

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↑オオサンショウウオは岩陰に隠れてほとんど動かない。
  たまに岩穴から出てきて動き廻るけど、すぐ岩穴に戻ってしまう。
  どこが目か写真ではよくわからないですね。(^^;

(つづく)


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2014年9月18日 (木)

第557段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(14)~羅漢寺

五百羅漢を越え、さらに登るとようやく本堂に着く。
と言っても、参道は平らな石で階段が作られており、かなり歩きやすかった。
本堂まででも、歩き始めて約10分で登ってしまった。


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↑本堂のすぐ後ろは岩肌である。

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↑本堂から見える景色。秋には紅葉がきれい、なのかもしれない(^^;。

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↑同上

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 羅漢寺についての説明書き。読んでみよう。

『 耶馬溪羅漢寺畧(りゃく)縁起

 当寺は645年 孝徳天皇の大化元年にインドより法道仙人が渡来され、地形
が釈迦牟尼仏の聖跡耆闍掘山(ギシャクツサン)を彷彿させるところに感じ、
久しく、この洞内に留まられました。

 去るに当って、念持仏として奉持された金銅仏一矢躰を残されたのが当寺の
始めと伝えられます。後、平安時代には山岳仏教の霊地として天台宗の時期
もあった様です。

 1337年、後醍醐天皇の延元二年(1337年)、臨済宗祖栄西禅師四代の仏孫
円龕照覚(エンガンショウカク)禅師が十六羅漢、五百羅漢、の石像を安置し
羅漢寺が開かれました。以来臨済宗二十六代を経て、1600年慶長五年に長州
深川大寧寺より鉄村玄策禅師が入山され曹洞宗に改まってから現住職まで
二十七代であります。

 江戸時代は東照宮をまつり、徳川家より百石を給され、三葉葵の紋章と十万
石の格式を許され、毎年正月、全九州大名の城代家老が参集する日田代官
所での年賀式では最上席であったとされています。

 又曹洞二代伝室玄宅禅師は細川三済公に招されて熊本に行き、水前寺の開
山になっておられます。

 当寺大開基は足利義満公 中興大開基は細川忠興公(三済)なお現本堂は
昭和18年(1943)類焼に会ったため、昭和44年に再興しました。

                                 山主敬白
                            中津市観光協会』

(原文のまま)

(つづく)


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2014年9月17日 (水)

第556段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(13)~羅漢寺

  山門を通ってさらに登っていくと、五百羅漢が現れる。

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↑五百羅漢外観

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↑同上

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↑堂の内部

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 なんでも、この堂内には、650年の歴史がある羅漢様が安置されている
という。
 しゃもじは、この堂内で購入でき、参詣者が願い事を書いて、奉納した
もの。

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 『五百羅漢

 延文四年(1359)逆流建順(ぎゃくりゅうけんじゅん)という偉僧がこの地を
訪れ、昭覚禅師とともにわずか一年で七百余体の石像物を建造しました。
竣工の際には一千人の僧侶が集まり、開眼供養が行われたといわれて
います。

 羅漢とは釈迦の高弟(位の高い弟子)のことで それぞれに名前があり
ます。その第一の高弟に位置付けられているのがビンツル(ビンドラバラ
ダージャ)で、五百羅漢が安置されている無漏窟の外に座っています。こ
れは、ビンツルがあまりにも明晰で、釈迦の考えていることが全てわかる
ため、釈迦から敬遠され、外に出されたからだといわれています。

                               本耶馬渓町
                               羅漢護寺会』


 しゃもじの数を見てもわかるように、ここに来た人の多くは、願い事を書いて、張り付けていくようだ(無論しゃもじは有料(^^;)。
 皆、家内安全、合格祈願、良縁祈願などを書いていた。
 神頼み、なのぬ寺だから仏頼み? ということか。 


(つづく)

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2014年9月16日 (火)

第555段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(12)~羅漢寺

 昨日の第554段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(11)~羅漢寺

で出てきたプラットホームのようなもの。
千体地蔵の安置所だった。


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説明書きによると、

『千体地蔵

 寺伝によると、室町期、不覚禅師(ふかくぜんじ)という高僧がこの千体地蔵と
十王尊を刻み安置したとされています。納められている石仏の数や、1100体以
上を数えます。

 また、舞台が設置されたのは万延元年(1860)で、千体地蔵が安置されてから、
約500年後のことです。

                               本耶馬渓町
                               羅漢護寺会』

(つづく)


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2014年9月15日 (月)

第554段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(11)~羅漢寺

 仁王門を越えると登り坂だ。

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程なく登っていくと、上に何かプラットホームのようなものが見える。

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その先に山門があった。

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『山門(さんもん)

   仁王門と並んで昭和18年(1943)の大火災の難を逃れた建物の一つです。

  室町幕府の三代将軍足利義満により建立されたと言われています。

   扁額の『耆闍崛山(ぎしゃくつせん)』は羅漢寺の山号で、禅宗の黄檗(おう
ばく)の三筆の一人、即非(そくひ)和尚が寛文六年(1666)羅漢寺を参詣した際
に書いたとされています。

                               本耶馬渓町
                               羅漢護寺会』

 切り立った山肌と狭い山道の間によく建てることができたな、という感じです。
相当大変だったと予想します。

(つづく)

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2014年9月14日 (日)

第553段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(10)~羅漢寺

ほどなくして、仁王門が現れる。

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↑仁王門
  周りの緑もきれいだ。

20140502_p5021338r
説明書きを読んでみよう。

『仁王門(におうもん)

  室町時代に建立され、「羅漢護国寺」の扁額は当時の将軍、足利義満より
 おくられたものです。

  その後延享三年(1746)に屋根及び柱などの基礎部分が修復されました。

  現在でも柱の下方にその修復部分を見ることができます。

  昭和18年(1943)、羅漢寺大火災の難を免れた貴重な建物です。

                               本耶馬渓町
                               羅漢護寺会』

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↑阿形(あぎょう)

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↑吽形(うんぎょう)

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↑仁王像の説明書き

『仁王像

 寛延四年(1751)に建立され、製作者は化人(僧という意味)と記されています。

 正面に向かって

 右側が阿形(あぎょう)(高さ220センチメートル)
 左側が吽形(うんぎょう)(高さ245センチメートル)

 です。
 この吽形の大きさは、国東の両子寺にある仁王像の大きさとおなじです。

                               本耶馬渓町
                               羅漢護寺会』

(つづく)


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2014年9月13日 (土)

第552段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(9)~羅漢寺

 それでは、羅漢寺の参道を上ってみよう。

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↑参道入口
  福澤諭吉 羅漢寺参拝記念之碑 が立っている。

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↑碑の横には、
 『諭吉は六歳ごろ母親に連れられて参拝
  後年耶馬溪開発に尽力する原点となる』
 と書かれている。

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『耆闍崛山羅漢寺(ぎしゃくつせん らかんじ)

 大化元年(645)印度より渡来した法道仙人は当山の霊峰に感動し、この地に
静座修禅して羅漢寺を開いたといわれています。


仙人がこの地を去る際に残した観世音像(エンブダゴン)は、この寺の霊宝として
大切に保存されています。

 暦応の頃(1338)栄西禅師の法孫、円龕昭覚禅師(えんがんしょうかくせんじ)
がこの地を訪れ、耆闍崛羅漢精舎と号しました。これが当山、山号の由来です。

その後、円龕昭覚は訪ね来た逆流健順(ぎゃくりゅうけんじゅん)とともに十六羅
漢、五百羅漢など三千七百余体の石像を建造し、延文五年(1360)に完成、一千
人余りの僧侶が集まり開眼供養(かいげんくよう)が行われたといわれています。

 以来、臨済宗二十六代を経て、慶長五年(1600)長州深川大寧寺より鉄村玄鷟
(てっそんげんぞく)禅師が入山してから曹洞宗に改まり、現住職まで二十七代
となっています。

                           平成十五年(2003) 十月現在』



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『 羅漢寺旧参道
                          本耶馬渓町指定史跡

 門前(本耶馬渓町大字跡田字門前)地区から羅漢寺への参道で、俗に
百間馬場といわれています。

石畳は山門まで610メートル、途中には智剛寺(ちごうじ)、禅海(ぜんかい)
墓所、庚申塔(こうしんとう)、仁王門などがあり、杉や檜などの巨木に囲ま
れたたたずまいは往時をしのばせます。

                      江戸初期(慶長の頃)造
                      昭和五四年(1979) 九月一九日指定』


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2014年9月12日 (金)

第551段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(8)~道の駅耶馬トピア

 耶馬溪橋(オランダ橋)を後にし、再び「青の洞門」を通って、国道500号(R500)を右折。程なく「道の駅耶馬トピア」が現れる。

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 売店と立ち食いそばなどの軽食が取れる小さな道の駅だった。
 トイレ休憩だけして出発する。

 ここから羅漢寺まではすぐ。
 R500を南下して案内に従って左折すると、ほどなく羅漢寺の駐車場に11:02に到着。

 駐車場には、羅漢寺を説明する看板があった。


20140502_p5021309r
↑クリックすると拡大します。

 羅漢寺まではリフトが利用できる。往復で700円也。
 しかし、日頃運動不足だし、ここは歩くことにする。

(つづく)


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2014年9月11日 (木)

第550段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(7)~耶馬溪橋(オランダ橋)

 昨日の第549段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(6)~【動画2】青の洞門
の映像で最後の方に出てきた耶馬溪橋(オランダ橋)。

 石造りの八連橋。
 なかなか見ないので、写真に収めることにした。
 説明書きによると、日本一だそうだ。

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説明書きを読んでみよう。

『 耶馬溪橋(オランダ橋)

 この橋は、山国川にかかる観光道路、生活道路として大正九年(1920年)から十二年かけて架橋されたもので、長崎件に多い石積方式であるため通称オランダ橋とも呼ばれている。

架橋工事は、地元の岩渕万吉氏が請け負い、地元の石工、石材を使用し架橋された。その工事に要した費用は曽木地区の村山二十一人の共有林を売却しそれに当てたもので、その額は四万円と言われている。

現在、我が国にはこれだけの規模の石橋はなく、八連、橋長116メートルは共に日本一である。

架橋以来、永い間風水害に耐えて来たこの橋であるが、昭和十九年(1944年)の大洪水で大きな被害を受け橋面の高欄等が流失し、コンクリートにおいて復旧されていた。

しかし、数年前より橋体にひび割れ等が判明し、通行上非常に危険な状態であったため平成十年(1998年)から十一年(1999年)にかけて当時の写真等を参考に補強、修復されたものである。

(橋歴)
一、大正九年(1920年)十一月着工 同十二年(1923年)三月竣工
一、昭和十九年(1944年)の水害で橋面が流失したがその後直ちに復旧する。
一、昭和五十六年(1981年)三月県指定の有形文化財となる。
一、平成十年(1998年)二月 補強修復工事着工
一、同十一年(1999年)三月 竣工

                                       本耶馬渓町』

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2014年9月10日 (水)

第549段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(6)~【動画2】青の洞門

 昨日の第548段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(5)~【動画1】青の洞門
のつづきです。

 今度は逆に食事処「青の郷」の駐車場から「青の洞門」を抜けて耶馬溪橋(オランダ橋)を渡るところまでの動画です。

 映像には、エンジン音が入ります。
 再生する際は、音量にご注意ください。

 こちらの動画の方が、岩を素掘りした感じがよく出ている、気がします。

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↑青の洞門 入口

(つづく)

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2014年9月 9日 (火)

第548段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(5)~【動画1】青の洞門

 セローのハンドルにデジカメを取り付けて、「青の洞門」の動画を撮ってきたので、見てみましょう。
 「青の洞門」の入口
から「青の郷」という食事処の駐車場までの映像です。

 映像には、エンジン音が入ります。
 再生する際は、音量にご注意ください。



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↑青の洞門 入口

(つづく)


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2014年9月 8日 (月)

第547段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(4)~青の洞門

 オートバイのところに戻り、今度はオートバイに乗って「青の洞門」を通過する。
 すると、洞門を抜けきったところは道路工事中。その先に「青の郷」、「やすらぎ処青の洞門」という食事処があり、その前が駐車場になっている。

 駐車場には本耶馬渓の案内MAPがあった。


20140502_p5021292r
↑クリックすると拡大する。
  案内MAPの文字通り、現在地に今いる。

 元来た道を戻ってR212を超えた
所に耶馬溪橋(オランダ橋)という石造りの橋がある。
 逆に県道500号を南下すると羅漢寺という山寺があるようだ


 さすがにこのMAPに描いてある名所を全て廻ることも出来ないので、上述の2箇所に行ってみよう。

 ここには、もう一つ「青の洞門」についての看板があった。
 読んでみよう。

20140502_p5021287r

『青の洞門と禅海和尚

 今から二百三十余年前、この付近は鎖渡(くさりど)と呼ばれ、岩角に並べられた板を踏み、鎖を伝って通行していた。このため、人馬は足を踏み外して転落し、死傷することが多かった。

 越後の僧、禅海和尚は、仏道修行のため諸国遍歴の途中、この地にさしかかり、人々が難渋するのを見て、ついにこの大岸壁を掘り抜こうという一大誓願を起した。

 和尚は、村々を廻って熱心に説いたが、これに耳をかす者は誰一人としていなかった。和尚は独り鑿(のみ)と鎚(つち)を手に、大岸壁に向ったのである。村人たちは凶人と嘲笑したが、念力堅固な和尚の鎚の音は日に月にさえ、年を重ねるごとに洞の深さを増していった。

 和尚の不動心はしだいに村人の心に浸み渡り、志用を喜捨したり、洞窟で鑿と鎚を振るう者もあり、仕事は大いにはかどってきた。

 和尚の念願に率いられた多くの人々の力が合して三十年、ついにこの洞門は完成した。貫通三百八歩(百五十米)、以来ここを往来する幾千万の人々は、ことごとく和尚の余徳を受けているのである。

 今では、この洞門を掘り拡げ、処々に手を加えて旧態を改めているが、一部はなお昔の面影を留めて、禅海一生の苦心を永久に物語っている。』

(なお、上記文中のふりがなは原文のままである。)

(つづく)



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2014年9月 7日 (日)

第546段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(3)~青の洞門

 昨日の第545段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(2)~青の洞門 に引き続き「青の洞門」の写真です。

 さらに歩道側の洞門を歩いて行きます。
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↑すると車道の洞門に出ます。

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↑車道脇の歩道をさらに歩いて行きます。

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↑なんか岩の色が変わりましたね。

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↑ずっと歩いてきて、振り返ったところ。車道側は影のため、露出がアンダーになってしまいました。


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↑さらに来た道を戻ります。

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↑最初に入った洞門の反対側。小さく見える人影は、道路の清掃をしていた(市の人?)。

(つづく)


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2014年9月 6日 (土)

第545段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(2)~青の洞門

 国道212号線(R212)を南下、耶馬渓に向かう。
 耶馬渓。。。大分県中津市を流れる山国川の渓谷。周囲は溶岩台地を浸食した奇岩秀峰の景勝地。


 「青の洞門」は本耶馬渓でR212が山国川を渡る橋の手前を(橋は渡らずに)左折すると現れる。

 1919年(大正8年)に発表された菊池寛の短編小説『恩讐の彼方に』のストーリーは、この青の洞門が
モチーフになっている。

 読んだことはないけれど、昔TVのアニメーションでこの話は見たことがある。あらすじは、Wikipediaなどを見れば分かるのでここでは省略するけど。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%A9%E8%AE%90%E3%81%AE%E5%BD%BC%E6%96%B9%E3%81%AB

 ただ、『恩讐の彼方に』のお話しの内容は、禅海和尚が掘った洞門を
モチーフとした小説だが、史実ではない。

 禅海和尚が諸国巡礼の旅で耶馬溪に立ち寄った際、危険な難所であった鎖渡
(くさりど)で人馬が命を落とすのを見て、1735年(享保20年)洞門開削の大誓願を興したと伝えられる

 小説『恩讐の彼方に』では、了海が独りで洞門を掘り進めるが、禅海和尚は掘削の資金を托鉢で集め、石工を雇って掘ったという。完成したのは、1764年(明和元年)。


 その素掘りのトンネルが今でも通ることができる(歩行者用)。車道用のトンネルは、幅が狭くすれ違うことができないため、トンネル手前に信号機があり、交互通行となっている

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↑「青の洞門」入口


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↑禅海和尚の手掘り跡。今では、下は、スロープや石畳で綺麗に整備されている。
 しかし、壁や天井は当時のままだ。

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↑『この窓が最初に明けたあかり窓』と手前の石碑に書かれている。

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↑『あの角をついてゐる所が堀ちがひをした所であります』と手前の石碑に書かれている。

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(つづく)


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2014年9月 5日 (金)

第544段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/2)(1)~道の駅しんよしとみ出発

 腕時計のアラームは午前5時に鳴った。
 少しうだうだしたが、5:07起床。すぐに撤収に取りかかる。

 なぜならば。

 野営したのは、『道の駅しんよしとみ』の東屋の下。

 そのうちすぐに店舗の人がやって来る。
 それはまだよいのだけど、お客さんがやってくる前には撤収を終えておく必要がある。
 

 いつもは何かと時間がかかる撤収も、6:20には、ほとんど完了したので、朝食を取りながら、ポメラで日記を付ける。

 NHKラジオで天気予報を聞く。今日は九州全域で “晴れ ”だそうだ。

 確かに、この場で空を見上げても雲がない。
 が、寒い。

 天気予報では、最高気温は20℃以上になる、ということだが、朝のうちは寒いだろうし、オートバイに乗っていたらなおさらだ。乗るときは、雨対策ではなく、防寒のために、上下ともレインウェアを着ておこう。

 トイレも済ませ、8:25頃 「道の駅しんよしとみ」出発。

 青の洞門方面に向かう。

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↑朝焼け。空には雲一つない。

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↑「道の駅しんよしとみ」前の遺跡

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↑実は、「道の駅しんよしとみ」自体が遺跡の一部に建てられている。
 芝生には建物跡の石が埋め込まれている。

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↑東屋の下で野営。下はコンクリートだが、マットの上で寝るので
 支障はない。テントや洗濯物が夜露に濡れないので、都合が
 いい。
  朝は道の駅の店舗の人やお客さんに迷惑をかけないため、撤収を急ぐ
必要がある。

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(つづく)


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2014年9月 4日 (木)

第543段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/1)(29)~中津からあげ

 
 雑誌るるぶで調べて、どうせなら一番うまい唐揚げを食べることした。
 からあげグランプリ(そんなグランプリがあるのか…(^^;)で塩ダレ部門最高金賞を取ったという『元祖中津からあげ もり山』。

http://morikara.net/

 
 
ここに からあげ を買いに行くことにした。

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↑『元祖中津からあげ もり山』

 ここは注文してから揚げるので、少し待たされた。

 でもそれは、揚げたてということ。
 骨付き100g、砂串2本、肉じゃがコロッケ1個で、計500円也。
 おいしそうだが、食べるのを我慢して、お風呂に入りに行こう。

 お風呂は昨日(4月30日)も入った「上毛町げんきの杜」。

 行く途中、大きなラジコンヘリコプターで薬剤を散布しているところに出くわし、すぐ向かいの店(新鮮市場)の駐車場にオートバイを停めてしばし、見る。


 
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↑ラジコンヘリで農薬散布中。

 ついでなので、この店(新鮮市場)で夕食と明日の朝食の食材を買う。

 ビールとサラダはセブンイレブンかスーパー大栄で買ったほうが良さそうだ(品揃えという点で)。

 17:18 新鮮市場出発。

 「上毛町げんきの杜」に到着したのは、17:28頃。GPSに場所を登録しておいたおかげで迷わずに済んだ。GPSは偉大だね。


Imgp5801r

↑「上毛町げんきの杜」。

 
19:11風呂から出る。
 時間がかかったのは、ちょっと事情がある。

 今日も「道の駅 しんよしとみ」に野営させてもらう。早くに行ってテントを設営しては、お店に迷惑になる。

 夜陰に紛れてテントを張るには、遅いほうがいい。

 それで、風呂にゆっくり浸かっていた、というわけだ。

 それと、道の駅には、水道がトイレにしかない。トイレの手洗い用の水道で、米を炊くというのも、ちょっとね。。。もっとも昨日(4月30日)は、しょうがないので、そうしたのだけど(^^;。

 それで、今日はこの「げんきの杜」の脱衣所にあるウォータークーラーの水を水筒やペットボトルに入れてきた。それによる時間も込みだ。もっとも、これはそんなに時間がかかることではないけれど。

 「道の駅 しんよしとみ」に行って、まず東屋で同じように泊まる人がいないか確かめる。
 いなかった。

 その足でスーパー大栄に行く。

 主な食材は「新鮮市場」で買って来たので、ビールとおつまみのお菓子だけ購入。

 スーパー大栄の隣のセブンイレブンでもコールスローのサラダとつまみのおかしを買って、道の駅に戻ってきた。

 

 時刻は、ちょうど20時くらい。

 道の駅の店舗は完全に閉まっていて、暗く、人の気配はない。
 早速昨日と同じ東屋の下にテントを設営。
 洗濯ものも干したあと、ご飯を炊く。

 ご飯の中に買ってきたじゃこを入れて、じゃこご飯にする。
 炊けるまでの間、からあげ店で買ってきたコロッケや砂きも串を食べる。そういえば、スーパー大栄で電子レンジを使って暖めてくればよかったな。
 あっ。でも冷めておいしい。


Imgp5805r
↑骨付きからあげ と 砂串 と コロッケ

Imgp5806r
↑夕食公開。 じゃこ飯。

 後片付けまで終えて寝たのは、23:20頃。
 なんか昨日と同じような時間だな(^^;。

【5月1日データ】
オドメーター:70514.0km
5月1日の走行距離:25.1km
万歩計:18,321歩(12.8km換算)

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2014年9月 3日 (水)

第542段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/1)(28)~中津の街並み

 その後、昔の町並みが残るという諸町通りを見にいく。
 場所は間違っていないと思うのだけど。
 左右をずらっと昔の街並みが残る家々があるのかなと思ったが、通りの左右で外観に統一感がないようだ。
 真新しい建物があったりして、昔の町並みというのは、2~3軒くらいしかない。

 看板にあった、大雅堂というところに行くが、ただ外観を眺めるだけに眺める。

 付近の住宅の道路とを隔てる外壁に土壁があって、そこだけ、昔らしさを演出していた。

20140501_p5011080r

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↑外観は昔っぽい(^^;

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↑自性寺 大雅堂

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↑大雅堂の「大雅」は人物名だったんですね。

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↑土壁が辛うじて昔っぽい、かなぁ。

 さて、中津名物の鶏唐揚げを買ってから、昨日(4月30日)に入った「上毛町げんきの杜」のお風呂に入りに行こう。

(つづく)

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2014年9月 2日 (火)

第541段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/1)(27)~中津は城郭都市

 うーん。なかなか無計画だと、際限なく時間を使ってしまうようで。
 一人旅だと特に。
 

 中津城やら、中津城の石垣やら、黒田官兵衛の資料館やらを見ていたら、すでに現在時刻14:35。こりゃ、もう一泊ここに泊まるしかない。

 そうとなれば、もう少し中津を見て回ろう。
 

  昔の町並みが残るという諸町通りを見に行く。

 中津の城下町は、土塁と堀で囲まれた城郭都市だったとのこと。土塁は「お囲い山」と呼ばれ、現在では壊されたところがほとんどですが、一部遺構として残っています。
 「お囲い山」については、


第510段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/1)(21)~中津市立南部小学校

にて少し説明をしています。

20140501_p5011085r

20140501_p5011089r2_
↑地図部分の拡大。諸町は⑤です。
 その地図によると、諸町の近く、西側に「広津口」、南側に「金谷口」があります。
 これらは、城戸口(木戸口)であり、見
付番所を設けて、城内への出入りを監視した名残り。
 昔は堀がぐるりと巡り、堀に沿うようにお囲い山、すなわち土塁が築かれていました。

 中津が城郭都市と呼ばれた所以です。

 もっとも現在は堀は埋め立てられ、その姿を見ることは出来ません。土塁は上述の通り、現在では一部が残っているのみとなっています。


20140501_p5011087r

『広津口

 中津城下の西側にある城戸口(二ヶ所)の一つで、中津城の南側に位置する殿町
と新魚町の間に在る諸町(一部武家屋敷のある町屋)の西端に位置する。

 広津口から外馬場を北に行けば小倉口へ、西へ行けば山国川岸の船渡場を経て対岸の広津へ、南へ進めば金谷口、島田口へと続く。
 広津口の郭内(おかこいの内側)には、非常時の対応に即して、仮説の陣営を築くために用意された自性寺と祥雲寺(跡)がある。』


20140501_p5011088r
『城戸口とは


 天正16年(1588)黒田孝高(如水)が丸山の地で中津城の修築をはじめ、
細川忠興(三斎)によって、慶長12年(1607年)中津城は竣工する。

 細川忠興は中津城を竣工させると、直ちに城下町の体裁を整えるため
に「町割令」を出す。以後13年を経て元和6年(1620)に城、城下町の工事
もようやく完了したとある。

このとき城下の外郭にあ6ヶ所(小倉口、広津口、金谷口、島田口、蛎瀬
口、大塚口)の城戸口(木戸口)を設け、見付番所を配して城下の出入り
を監視した。』

 このあたりのことは、中津城下町とお囲い山でググるとかなり詳しいことを書いてあるホームページが検索できます。作者の許可を得ていないので、リンクは張りませんが(^^;。

(つづく)

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2014年9月 1日 (月)

第540段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/1)(26)~中津城の石垣

 2014年のGWは、福岡県と大分県をスポット的にツーリングしています。
 昨日のつづきで、大分県中津市にある中津城です。

 昨日の
第539段:福岡・大分ツーリング記(2014/5/1)(25)~中津城の石垣
のつづきになります。

 歴史的なところは、全然知識のない私(^^;。
 石垣近くに立て看板があるので、それに補ってもらいましょう。
 ツーリング中は流石に立て看板の一字一句まで読んでいる時間はないので。


20140501_p5011032r
↑こちらは昨日掲載した看板の拡大になります。

20140501_p5011027r

『黒田本丸の石垣と細川時代の石垣

 右側の石垣は、「折あらば天下人に」という野望を秘めた黒田孝高(よしたか)
(如水(じょすい))時代の本丸跡の石垣である。左側の石垣は、細強忠興(ただおき)
(三斎(さんさい))時代のもので、忠興自慢の石垣である。

両時代の石垣とも花崗岩が多く使われている。

 中津城が歴史に登場するのは、天正十五年(1587)孝高が豊臣秀吉に豊前の六郡
を与えられ、山国川の河口デルタである中津の地を選び、翌年築城を始めたことに
よる。

軍事的にも西に山国川、南と東に大家川(おおえがわ)(のちに忠興の築いた
金屋堤(かなやづつみ)によってふさがれた)、北に周防灘(すおうなだ)を控えた要
害の地であった。
 

同時に瀬戸内海に面し、畿内への重要な港でもあった。

 孝高は、闇無浜(くらなしはま)から自見(じみ)・大塚一帯を含む大規模な築城に
取りかかったが、度重なる戦のため、なかなか工事もはかどらないまま、慶長五年
(1600)関ヶ原の戦などの功によって筑前五十二万石への加増転封(かぞうてんぽう)
し中津を去った。

 黒田氏の後には、細川忠興が豊前一国と豊後国の国東・速見二郡の領主として
入部した。

忠興は最初中津城を居城とし、弟の興元を小倉城においた。慶長七年忠興は、
居城を小倉城に変更し大規模な小倉城築城を始めた。

元和元年(1615)一国一城令が出され、忠興は慶長年間より行っていた中津城の
普請(ふしん)をいったん中止した。

小倉城以外に、中津城も残されるよう老中に働きかけた結果、翌二年中津城の
残置が決まった。

 元和六年(1620)家督を細川忠利(ただとし)に譲った忠興は、翌七年中津城に
移り、中津城や城下町の整備を本格的に行った。

元和の一国一城令や忠興の隠居城としての性格のため、同年本丸と二之丸の
間の堀を埋め、天守台を周囲と同じ高さに下げるよう命じている。

                              中津市教育委員会
                              中津の郷土史を語る会』



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