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2013年7月

2013年7月31日 (水)

第143段:近場の公園

  第142段:夕日 で夕日を撮影した日と同じ日。
 家に帰る途中、ちょっといつもと違う道で帰ることにした。

 そのとき、公園を見つけた。

 中央に池がある。
 地面は草に覆われているので、子供たちがここで活発に遊んでいるとは思えなかった。

 東屋もある。

 キャンプツーリングをしていると、キャンプ場が見つからないことが間々あり、そういう場合、公園でキャンプするときもある。

 公園でキャンプするときの条件は、地面が平らなのはもちろんだが、それ以外に、トイレと水道(水飲み場など)があることだ。

 しかし、ここには、そのトイレも水道もない。

 ―ここでは、キャンプはできないな。

 いやいや。家が近いんだから、ここでキャンプする必要性はないのだが(^^;。


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↑自宅近くの公園。中央に池がある。

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↑池は水生植物で覆われていた。

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↑公園の東屋

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2013年7月30日 (火)

第142段:夕日

 先日のこと。
 まだ明るいうちに帰宅することができた。

 こう言っては何だが、珍しいことである。

 家への帰り道、夕日が見えたので、写真に収めた。
 手前は中央道。


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↑夕日と中央道

このあと、夕日はすぐ雲にかくれてしまった。

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2013年7月29日 (月)

第141段:マンホールデザイン(3)

 先日、あきる野市に行く用事があった。

 JR五日市線秋川駅近くの場所で撮影したマンホールの写真が以下だ。


Imgp1868r
↑あきる野市のマンホール。表示は『あきがわし』。


 マンホールには、『あきがわし』と書いてある。
 旧秋川市は、1995年に五日市町と合併し『あきる野市』新設に伴い、廃止となっている。

 このマンホールは、合併前に作られたもの、ということだ。

 デザインは、 “秋川と鮎 ”となっていて、これも地域性をよく表している。


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2013年7月28日 (日)

第140段:マンホールデザイン(2)

 2013年のGW。山口県へツーリングへ行った。
 このときのことは、『山口県ツーリング記』という形でまとめているのだけど…。
 
 萩市を散策しているときにマンホールに目が止まった。

 
第14段:マンホールデザイン で、八王子市のマンホールのことを書いているが、八王子市のそれは、伝統芸能『車人形』のデザインだった。

 萩市のマンホールは以下のようになっている。


20130502_p5022167r
↑萩市のマンホール

 夏みかんと白壁、なまこ壁のデザイン。
 何とも萩らしい。

 (つづく)


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2013年7月27日 (土)

第139段:【動画】山口県ツーリング記(2013/4/28) (秋吉台カルストロード)

 私は現在北海道をツーリング中なのですが。。。
 7月27日の深夜、というと茨城県の大洗フェリーターミナルにいる頃かと。

 旅先でインターネットにアクセスできるような機器を、私は持っていない。

 まぁ、ブログ記事の更新を、旅に出ているときくらい休んでもいいのではないか、とは思うのだけど。
 実際、今年のGWのときは、そうしているんだし。

 ただ、ここまで書き続けてくると、間が空くとなんかすっきりしない、というか気になってしまうので、私が家に不在の間もブログ記事は自動更新することにした。

 つまり、ブログ記事を予め書いておいて、公開日時を指定しておけば、私が不在でも、コンピューターが立ち上がっていなくても、自動で更新してくれる、というわけである。


 さて。
 5月からずっと書き続けている『山口県ツーリング記』。
 記事を小出しにしている、とかの意見が聞こえてきそうですが、ブログを細く長く続けて行きたいので、そこはご容赦願って。

 今回は、趣を変えて、動画を見てもらおうかと。

 この動画は、4月28日、山口県秋吉台のカルストロードを走ったときのもの。

 バイクには、ハンドルのところにコンパクトデジカメを取り付けられるよう、マウントを自作してある。

 こういうところをバイクで走るのは、気持ちがいい。

Imgp1758r
↑山口県秋吉台カルストロード

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2013年7月26日 (金)

第138段:北海道へ出発

 山口県ツーリング記。もうそろそろ終わりが見えてきたのだけど、夏休み前に終わらなかった。続きは8/5以降となります。

 さて。
 7月27日の午前1:45発の大洗発苫小牧行きの商船三井フェリー、所謂深夜便で北海道ツーリングに出発する。

 なぜこの時季に会社を休めるのか、ついては 
第78段:フェリーの予約 (1) で記述しているので、そちらを見てもらうとして。

 出港が27日深夜ということで、急がなくてもよいのだけど、26日は少し早く会社を退けて、大洗へ向かう予定。

 いつもまだ大丈夫、なんて思って、出発時刻を19時くらいにしてしまうと、結構大洗に着くのがぎりぎりになってしまう。

 八王子ICから水戸大洗ICまで約158km。意外と距離がある。

 キャンプ道具満載の我がバイク、セローは遅い。いいとこ90km/がせいぜいだ。それ以上だと、エンジンがうなりを上げてかわいそう。

 後続車にはすぐに追いつかれてしまうけど、ゆっくり90km/hを維持して走る。そのため、時間がかかるというわけ。途中のSAでは休憩もするし。


 今回の北海道ツーリングは、時間が取れない。
 日程は以下のように考えている。あくまで予定ですが。
 今回は道南を主に走る。

 7/26 夕方 八王子出発。 茨城県大洗港へ。
 7/27 1:45大洗港出港(商船三井フェリー 『さんふらわあ』)
 同日 19:45苫小牧西港着。
 7/28 後方羊蹄山近くまで移動。
 7/29 後方羊蹄山登山
 7/30~8/1 道南地方を反時計回りに進む。ニセコ→寿都→江差→松前→函館→恵山→森→八雲→長万部→室蘭→苫小牧 
 8/2  18:45苫小牧西港出航(商船三井フェリー 『さんふらわあ』)
 8/3  14:00大洗港着
 8/4  八王子着

 それでは、出発します。

 自宅に不在の場合でも、ブログは自動更新していますので、よろしく(^^)。

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2013年7月25日 (木)

第137段:山口県ツーリング記(2013/5/3) (7)~北の総門

 「北の総門」については、もう一つ説明書きがあるので、引用してみよう。こちらの方が、昨日の説明より、詳しく書いてある。

 『萩城跡外堀北の総門と周辺の整備

  北の総門(復元)
   <構造様式>脇戸付高麗門  切妻造  本瓦葺
   <規模>  高さ約7m、柱間約5.9m


  北の総門の概要

   北の総門は、三の丸(堀内)の入口である総門の一つです。総門は北、中、平安古(ひやこ)の3か所があり、あわせて「大手三つの門」と呼ばれました。

   昼間は門番が常駐して出入りする者を監視し、夜は門を閉じて鑑札を持った者しか通れませんでした。

   元文年間(1739~40)の絵図によると、北・中の総門前に、新たに枡形と南北の船着場が描かれています。枡形と土橋には土塀が巡り、船着場に続く箇所は食い違いになっています。

   この時期北・中の総門周辺が再整備されたことがうかがえます。



  北の総門とその周辺の整備

   萩市では、「史跡萩城跡(外堀)保存整備事業」の一環として、北の総門とその周辺の整備を行いました。北の総門建物の復元は平成16年(2004)10月、周辺の整備は平成23年(2011)3月に完成しました。

   北の総門は、発掘調査で検出した柱穴遺構をもとに位置、平面形を確定し、絵図や古文書を参考として復元しました。

   なお、門の両側にある閉塞塀は記録や遺構では存在していませんが、今回全国の例を参考として追加したものです。

   北の総門周辺は、発掘調査で枡形や土塁裾の石垣、船着場の石段や石敷遺構を検出しました。

   これらの石組遺構のうち、変形部分を積み直しを行い、欠損部分は新たな石材で補い、修復しました。土塀は、萩城内の土塀を参考として復元しました。

   ただし、枡形の食い違い箇所は遺構で検出できなかったので、絵図から位置を推定し、植栽で表示しています。

   また、土橋から東に続く植栽は、8間堀の時期の区画を示すものです。

   現在は遊歩道で南北がつながっていますが、当時は表示したところまで町屋がありました。』


   それにしても。
   これだけのものを復元しようとすると、相当お金がかかっただろう。萩市が観光事業に力を入れているのが、分かる。(つづく)


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↑北の総門の説明書き。整備の概要が書かれている。

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↑北の総門(北側の土塁の下から撮影)

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↑北側土塁から枡形を見下ろしたところ


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↑堀を渡って南側の船着場前から北の総門を見る

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2013年7月24日 (水)

第136段:山口県ツーリング記(2013/5/3) (6)~北の総門

 11:25頃。「北の総門」に到着。

 ここは、藩政時代、「中ノ総門」、「平安古(ひやこ)ノ総門」とともに城下から三の丸に入る城門として、設置されていたものを2004年に復元したもの。なかなかに立派な門だ。

 例によって、説明書きを引用させてもらおう。

 『北の総門

  萩城三の丸(堀内)の東側に当たる出入り口。総門としては、ほかに中ノ総門があり、この門は他の門の北に位置して北の総門と称し、萩城外堀を隔てて城下町に隣接した門番所があって、暮れの六ツ時(日の入り)から明け六ツ時(日の出)まで門を閉め、夜中は人も荷も手形を有する者に限り通行が許された。』

 もう少し、詳しい説明書きが他にあるのだが、そちらを書くと長くなるので、また次回。(つづく)


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↑北の総門 正面より

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↑同上


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2013年7月23日 (火)

第135段:山口県ツーリング記(2013/5/3) (5)~夏蜜柑菓子

 今日(5/3)の19:00 新門司発のフェリーに乗らなければならない。山口県にいられるのも今日が最後なので、実家用にお土産を買っておかないと。

 野山獄・岩倉獄跡の1ブロック西側、住所では萩市熊谷町になるが、『光圀本店』という夏蜜柑菓子の老舗がある。

 「道の駅 萩往還」でも扱っていた “夏蜜柑丸漬”。これが土産によさそうと思っていたのだけど、道の駅では売り切れだった。

 それなら、直接買いに行けばいいじゃないか、ということでやって来たのだ。

http://www.hagishi.com/member/600024.html

 別に宣伝をしようというわけではないのだが。

 実家で、その夏蜜柑丸漬を食べてみた。
 夏蜜柑の中を綺麗にくりぬいて、そこに羊羹を流し込んであるのね。皮はほろ苦く、中の羊羹は甘く、それが同時に口の中で味わうことができて、なかなかの美味。 お茶請けにはよいね。 ちと値段が高い気もするが、全工程手作業で5日間かかるというし、観光地の土産ということも考えると、まぁ妥当な値段なのかなと。

11:20頃出発。(つづく)


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↑光圀本店

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2013年7月22日 (月)

第134段:山口県ツーリング記(2013/5/3) (4)~野山獄・岩倉獄跡

  10:52。野山獄(のやまごく)、岩倉獄(いわくらごく)跡に到着。

 野山獄跡、岩倉獄跡は、共に現在の萩市今古萩町に道を挟んだ対面にある。
 周りは閑静な住宅街であるが、昔ここには、牢屋と刑場があったのだ。 
 現在の当時の敷地の一部を残して、記念碑が建っているだけだ。

 例によって、説明書きがあるので、引用しよう。

 『市指定史跡

   野山獄跡

   正保2年(1645)9月17日夜、藩士岩倉孫兵衛(いわくらまごべい)(大組・禄高200石)は酒に酔って道を隔てた西隣の藩士野山六右衛門(のやまろくえもん)(大組・禄高200石)の家に切り込み、家族を殺傷した。この事件のため、岩倉は死刑となり、両家とも取りつぶされ、屋敷は藩の獄になった。

   野山獄は上牢として士分の者の収容を、岩倉獄は下牢として庶民を収容した。なお、現在の指定地は獄の一部分である。

   幕末、吉田松陰は海外渡航に失敗したのち野山獄に、その従者金子重之助(重輔)は岩倉獄に投ぜられた。松陰はここで仲間の囚人を教化するという前例のない教育活動を行っている。

   野山獄はまた維新前夜の藩内抗争の中で、正義派(革新派)・俗論派(保守派)双方の藩士が投ぜられ、処刑された場所でもある。』


  岩倉獄跡の説明書きも上記とほぼ同じ内容だった。
  吉田松陰と金子重輔については、その銅像の写真を 
第101段:山口県ツーリング記(2013/5/1) (10)~吉田松陰誕生地 で見ることができる。

  少し補足すると、野山家の屋敷に岩倉孫兵衛とやらがなぜ切り込んだのか、はよく分からない。が、喧嘩両成敗ということで、両家とも取り潰し。屋敷は藩に没収されてしまう。

  後に藩は両家の跡を牢獄にするが、切り込んだ岩倉側に非があるということで、士分の者を収容する上牢を野山獄、庶民を収容する下牢を岩倉獄にした、という。

  吉田松陰は、海外密航に失敗し、野山獄に投じられる。上述の説明書きで 、松陰が囚人たちに“教化する”とあるが、その内容は孟子の講義であった。獄吏(監獄の役人)でさえ、廊下で松陰の講義に耳を傾けたというのは有名な話である。

  また、説明書きの最後に維新前夜の藩内抗争のことが書かれているが、投獄された者の中には、高杉晋作ほか11烈士(正義派)や保守派の坪井九右衛門や椋梨藤太なども含まれている。

  高杉晋作は、投獄された初日、

  「先生を慕うてようやく野山獄」

 と詠んでいる。 “先生 ”とはもちろん吉田松陰のことである。よほど松陰のことを慕っていたことが分かる。

10:55出発。(つづく)

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↑野山獄跡

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↑岩倉獄跡(向かって右隣は、普通の民家である)

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2013年7月21日 (日)

第133弾:山口県ツーリング記(2013/5/3) (3)~石列

 復元された高札場の周りは、広場のようになっている。その一角にL字に並べられた石の列がある。すぐそばの説明書きがなかったら、気にしなかっただろう。それには、以下のように書いてある。

 『石列(せきれつ)

   L字状に並んでいる石列は、発掘調査で見つかった石垣の位置を示したものです。

   これらの石垣は、新堀川ができる貞享4年(1687)以前の水際に築かれた石垣であると考えられ、本来はさらに南と東へ石垣の範囲は広がっていたものと推定されます。

   発掘調査の状況からみて、それらの石材は、新堀川を作る際にところどころが取り壊されたようです。

   これらの遺構は、江戸時代を通してみた唐樋札場(からひふだば)周辺の土地利用の一端を物語るものといえるでしょう。』


  高札場は水場の近くにあった、というわけだ。(つづく)


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↑石列の説明書き。その中の赤い線が石列として復元されている。

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↑L字型の石列


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2013年7月20日 (土)

第132段:山口県ツーリング記(2013/5/3) (2)~高札場

 10:20頃萩市の高札場(たかさつば)に到着。
 
 唐樋札場(からひふだば)については、
第93段:山口県ツーリング記(2013/5/1) (2)~道の駅 萩往還 で一度その記述が出てきている。

 ここは、昔の情報発信をする場だったらしい。
 高札場は復元されている。説明書きを見てみよう。


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↑この高札場が萩往還の出発地。

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↑復元された高札場

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↑こんな感じで、高札が掲示されていたらしい。


『高札場(たかさつば)  (復元)

  高札場は、幕府や藩からの御触れを記した高札を掲示する場所です。多くの人に知らせるため、道路の交差する辻や街道沿いの宿場町など、人通りの多いところに設けられました。

  唐樋札場の高札場には、承応3年(1654)時点で7枚の高札が掲示されていたことが文献記録に残っています。

  高札には
  「忠孝にはげみ、親子兄弟仲良くすること」 や
  「田畑を一生懸命耕し、荒らさないこと」 といった暮らしや仕事に関すること、また、
  「キリシタン禁令」や
  「異国船の抜荷禁止」などの禁止事項が記されており、城下での規律正しい生活を促すものでした。

  この他、磔(はりつけ)や獄門の刑に相当する罪人を見せしめのため、この地に晒場(さらしば)を設け、最長で三日間にわたり群衆の面前にさらすことも行われました。

  唐樋札場は、明治時代になってその役割を終え、取り壊されました。

  唐樋札場跡では平成21年(2009)2月から5月にかけて発掘調査を行い、しっかりとつき固められた基礎(版築土)の上で、高札場建物を支えていた柱穴、地面より一段高く見せるための基壇化粧石、細長い延石、雨水を受けるための瓦組遺構などがみつかりました。

  これらは全て地中に保存されています。
  建物推定規模は東西3.94m、南北7.51m、4本の柱間距離はそれぞれ1.97mです。

  こうした発掘調査の成果と文献記録、絵図、類例建物などを参考にして、高札場を往時の姿に復元しました。

  復元された高札場は、高さ5.67m、木造切妻造、鋼板葺(往時は板葺)となります。』

(つづく)

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2013年7月19日 (金)

第131段:山口県ツーリング記(2013/5/3) (1)

 5:30頃一度目覚めるが、身体が疲れていることもあって、そのまま寝てた。6時頃、NHKラジオを聞く。天気予報では、雨の心配はないようだ。しかし、気温が低い。ラジオによるとこれは全国的らしい。

 6:30撤収を始める。

 阿武川温泉ふれあい会館のすぐ横を阿武川が流れている。
 ここに車で来ていたキャンパーは、カヤックを積んでいた。こちらが目的だったか。
 2002年頃の一時期、カヤックにはまってよくやっていた。
 カヤック自体は値段が高いので、レンタルだったけど。
 それ以来、カヤックはやっていない。
 懐かしいな。また、やってみたくなった。
 カヤックは、 所謂 “沈” したときに復帰できる技術を身につけないといけないのだけど、なかなかできなかった。今やってもできないだろうな。


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↑阿武川を行くカヤック

 そんなカヤックを見てたら、時間が経ってしまい、撤収に時間がかかってしまった。

 その間に阿武川温泉公園まつりの準備は着々と始まってしまっていた。


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↑左奥のテントが、外国人チャリダーのもの。

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↑まつりのためのテントが準備されていた。

 9:53撤収完了。
 9:57萩市に向かうため、出発。(つづく)


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2013年7月18日 (木)

第130段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (25)

 現在17:40。大分日も傾いてきた。

 もう一度菊屋横町、江戸屋横町をぐるりと一回りした。そう言えば、菊屋家住宅(
第103段:山口県ツーリング記(2013/5/1) (12)  参照)は、結局中を見学できなかった。

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↑萩城城下町の碑

 現在18:11。

 もう暗いので、写真は明日にしようと思うが、野山獄跡、岩倉獄跡の位置を確認した後、ザ・ビックエクストラ萩店へ向かう。

 実は、結局今日も自炊にしたのだ。
 今日は山口県で過ごす最後の日。しかも昼飯を抜いてしまっている。外食でもいいかなと思った。

 しかし、るるぶに載っている飯屋は値段が高いところばかり。うに料理が有名らしい、野山獄跡のそばにあるとある料理屋は、うに丼定食\3,675也。これはちょっと高すぎる。

 ザ・ビックエクストラ萩店で買ったのは、ビビンバの素、朝食用のパン2個、おにぎり、200mL野菜ジュース4個、ヨーグルト、スナック菓子、チョコレート、ビール350mL(一番搾り)、発泡酒(サッポロ北海道)。

 店を出発したのは、19:40頃。

 阿武川温泉には20:05頃到着した。

 すぐに風呂の準備をして、温泉に行く。温泉は21時までなのだ。

 今日の温泉は、昨日女風呂だった、大浴場。大浴場と中浴場が毎日男風呂と女風呂で入れ替わる。
 カランは5つしかないのは、中浴場と同じ。大浴場といってもそれほど大きさに違いはないようだが?

 21時ぎりぎりに温泉から出る。

 ご飯を炊きながら、洗濯物を干す。

 5/3はこのキャンプ場というか公園で祭りがあるらしく、テントがいくつも準備されていた。また、ライダー3人、キャンピングカー2台。
 昨日私に話しかけてきた外国人も連泊していた。

  旅の安全を願い、また、落とし物をしないことを願い、乾杯する。
  (なぜ、落とし物なのか。
第105段:山口県ツーリング記(2013/5/1) (14) の記事を参照。)


 ここは、22:10頃街灯が消えてしまう。街灯が消えたあとは、真っ暗だ。
ランタンを持ち出した。

  食べたあとの後片付けをして、寝たのは23:20頃だった。
 およそキャンプの理想生活とは、ほど遠い生活を送っているな(^^;。

(つづく)

(67525.8km) (1日の走行距離43.4km)  (4/26の出発から446.2km) 
(本日の歩数:19026歩 しっかり2288歩 498kcal 13.31km)


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2013年7月17日 (水)

第129段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (24)~高杉晋作像

第103段:山口県ツーリング記(2013/5/1) (12) に地図の写真があるので、それを見ると位置関係が分かる。

 円政寺を出て、江戸屋横町を南方面に向かうとすぐ十字路になるので、そこを右に曲がる。伊勢屋横町と菊屋横町の間に挟まれたところに、『晋作広場』があり、そこには、『高杉晋作』の銅像が建っている。


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↑高杉晋作立志像

 こんな観光地なのだから、広場ではなく、何か建物を建てればよいような気がするが、萩城城下町は、
第103段:山口県ツーリング記(2013/5/1) (12) で紹介した通り、国指定史跡なので、建築物をおいそれと建てる、というわけにはいかないのだろう。(つづく)

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2013年7月16日 (火)

第128段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (23)~円政寺

 円政寺の金毘羅社社殿の向かって左側奥に、木造の馬がいる。

 馬はきちんと厩舎に収まっている。

 以下の説明書きがある。

 『この神馬(しんめ または しんば)は文政三年(1820) 萩市浜崎町 金子音松氏が金毘羅社に奉納したもので、山口市大内名工 安永貞右衛門の作である。

  高杉晋作(1839年生) 伊藤博文(1841年生)は子供のころこの境内が遊び場所でありましたので、いつもここに来ては、馬の鼻をなぜていたと言う話しです。神馬は雄ですよ。』


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↑円政寺の神馬


 それから狛犬(こまいぬ)の台座。ここも見所、らしい。

 ドラマ『水戸黄門』にも使われた、大切な瓶(かめ)を、その瓶に落ちた子供の命を救うために割ってしまう中国のことわざが彫刻してある。

 ちょっとインターネットで調べてみた。
 
 『水戸黄門 第25部 
  第12話「夢を咲かせた太谷焼(鳴門)」 1997年3月10日放送。

  ストーリー:
 黄門さま一行は、蜂須賀藩に入った。この地には殿様が、新しい焼き物を作ろうと、九州から職人を呼んで始めた大谷焼があると聞いていた黄門さまは、窯元を訪ねる。しかし、窯元は何年も前に取りつぶされたと知って驚いた。  職人の名は文右衛門といい、腕は良かったのだが、土の性質がうまく合わず、四年経っても利益を上げることができなかった。その上殿様をだましたと疑われ、与力の桑島伊十郎によって討ち取られた。文右衛門の息子文五郎は家族と共に行方不明になっていた。
 桑島からそのいきさつを聞いた黄門さまだが、桑島が何かを隠していると感じる。
 さて、桑島は、家老の松浦宇右衛門に文右衛門の作った窯をそのままにしておくのはもったいないと進言する。
 信楽から来た五郎作という陶工に、阿波特産の藍染めに使う大きなカメを焼かせたいと願い出る。
 文右衛門に関係のない陶工ならばよいだろうと、許可が出た。黄門さま一行は五郎作を手伝いながら、仕事を見学することになった。
 実は五郎作こそ、文五郎だった。信楽で修行と工夫を重ね、カメ作りを完成させたのだ。ただならぬ文五郎の仕事ぶりに黄門さまは感心する。
 出来上がったカメを殿様に披露する日、誤って子供が落ちてしまった。文五郎の息子文之助は子供を助けるため、大切なカメを割ってしまう…。』

TBSのホームページより引用。

http://www.tbs.co.jp/mito/mito25/3.html#l12


  なるほど。
  もっとも、その中国のことわざを『水戸黄門』でドラマ化されたというだけで、特に円政寺と『水戸黄門』に関係があるわけではない。(つづく)

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↑円政寺の狛犬吽形


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↑円政寺の狛犬阿形


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↑狛犬吽形の台座。 子供を助けるため、瓶を割る話が彫刻されている。

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2013年7月15日 (月)

第127段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (22)~円政寺

 それでは、円政寺の中に入ってみよう。
 拝観料200円也。

 拝観料を払うと、萩城城下町の絵図がもらえる。
 どのようなものかは、以下のHPを参照。
 
http://www.hagi.ne.jp/kanko/onari_machi_05.html

 なかなか凝っている絵図だ。

 昨日のブログ(
第126段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (21))で、円政寺の石灯籠の写真を載せているが、実際には拝観料を払って中に入らないと見られない。

 その石灯籠を支える4本の足は、可動式になっており、地震の際、揺れを吸収して倒れないようになっているという。もっとも実物を眺めるだけでは(写真で見る限りでは)そこまではわからないが。


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↑石灯籠の台座部


 以下の写真が、昨日のブログで説明書きにあった「金毘羅社社殿」。
 そこには、大きな天狗の面が掲げてある。

 高杉晋作や木戸孝允(桂小五郎)が、幼少時に家人に連れて来られ、この面をよく見せられていたという。
 一説には、物怖じしないように、という躾の一環だという話だ。


20130502_p5022351r
↑金毘羅社社殿

20130502_p5022343r
↑同上。 大きな天狗の面が掲げてある。

20130502_p5022359r
↑赤い天狗の面

(つづく)


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2013年7月14日 (日)

第126段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (21)~円政寺

  『木戸孝允旧宅』を出て、江戸屋横町を南方面に行くと、そのすぐ隣が『青木周弼(あおきしゅうすけ)旧宅』だ。

 が、現在16:35。

 さらにその隣にある円政寺も見たいのだが、時間がない。

 今回、『青木周弼旧宅』の見学は見送ろう。

 ところが、後になって分かったことだが、この『青木周弼旧宅』。2013年6月30日から約3年後の2016年3月まで保存修理を行うため、公開休止になるという。

 それを知っていたら、見学したのだが。

 まぁ、仕方ない。

 円政寺に行こう。

 昨日(5/1)、萩城城下町を散策したとき、この円政寺の前を通り、見学したいと思った。それは、入口のところにあるものが目を惹いたからだ。

 読売テレビ・日本テレビ アニメ 「名探偵コナン」。

 2008年12月8日放送 第519話 「明治維新ミステリーツアー(解読編)」に円政寺が出てきたというのだ。

 当然、アニメに出てくるからには、スタッフがロケハンをしただろうし。そこを見るということは、所謂 “聖地巡礼”というやつか。

 もっとも、このTVは見ていなかったのだが(^^;。

 例によって、入口のところに説明書きがある。少し長いが引用させてもらう。

  『市指定有形文化財(建造物)

   円政寺内金毘羅社社殿

   金毘羅社の建立年は不詳であるが、入口に金毘羅社に寄進された鳥居が建っており、それに延享2年(1745)と彫られている点や天保年間(1830~43)に編纂された「八江萩名所図画」に現在の社そのままの姿が描かれていることなどから、少なくともそのころには建立されていたと思われる。

  
   本殿は木造切妻造檜皮葺で桁行1.73m、梁間1.2m、主な用材はケヤキ、柱は丸柱である。

   釣屋は桁行5.41m、梁間5.1mの桟瓦葺で、内部は畳敷きである。

   拝殿は一重裳階付、入母屋造本瓦葺、前面庇は檜皮葺、用材はケヤキ、柱は丸柱で、唐破風の桁行4.0m、梁間6.1mの本県独特の楼造風である。

   このように社殿が地方色の濃い古い建物であることや神仏習合の形態が今でもみられる点で貴重な遺構である。

   
   石鳥居は花崗岩製で高さ2.8m、様式は明神鳥居で笠木・島木に反りがあり、柱には転びがあり、柱頭部には台輪がついている。

   建立年代は延享2年(1745)である。

   山門は桁行2.42m、梁間1.34mの棟門形式で本瓦葺、両袖に1.35mの潜門がついている。建立年代は不明である。

   石灯籠は玄武岩製で高さ4.3m、さらに77cmの4段の台座上に立ち、県下最大のものである。

   竿の部分の竜の高彫はすばらしく、高さ41.14m、直径52cmである。製作年代安政5年(1858)で萩の石工五嶋吉平恒徳、同山中武祐利豊の共同製作であり、付近の町人たちが寄進したものである。』

(つづく)
 


20130502_p5022315r
↑円政寺

20130502_p5022317r
↑同上

20130502_p5022356r
↑「名探偵コナン」の舞台になった。

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↑円政寺の石灯籠


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2013年7月13日 (土)

第125段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (20)~木戸孝允旧宅

 バイクを停めた駐輪場 (第103段:山口県ツーリング記(2013/5/1) (12) の地図の写真参照) は、呉服町通りと江戸屋横町の交差にある。その江戸屋横町沿い、バイクを停めた駐輪場の隣が、『木戸孝允旧宅』だ。

 江戸屋横町は、萩城城下町内にある侘(わ)びたの風情のある美しい通りだ。

 その中でも木戸孝允旧宅は、萩市の代表的な風景に使われるなど、有名なところ。(
第104段:山口県ツーリング記(2013/5/1) (13) 参照)。



 例によって、門のところに説明書きがあるので、引用させてもらおう。

  『木戸孝允(きどたかよし)旧宅

   木戸孝允は、天保4年(1833) 6月26日、:萩藩医和田昌景(石高 20石)の長男として、ここに生まれた。

  8歳で石高 150石の桂家(末期養子のため石高 90石)の養子となったが、養母死亡のため実家で成長し、江戸に出るまでの約20年間をこの家で過ごした。

  初名は桂小五郎、33歳の時藩命により木戸貫治、翌年木戸準一郎と改めた。実名は孝允。

   17歳の時には藩校明倫館で、吉田松陰に学んだ。30歳の頃から藩の要職につく一方、京都におもむいて薩摩の西郷隆盛らと倒幕の一大勢力となる薩長同盟を結んだ。


   明治新政府では特に五箇条の御誓文の草案作成に参画し、版籍奉還や廃藩置県の実現に力を尽くした。

  これらの功績により、西郷隆盛・大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれた。

  明治10年(1877) 5月26日、西南戦争のさなか、45歳で京都で病死。


   この旧宅は、大正15年(1926)に子孫の木戸幸一氏より当時の萩町へ寄贈されたもので、桟瓦葺二階建。木戸孝允が誕生した部屋や庭園など当時の姿をよく残しており、昭和7年(1932)に国の史跡に指定された。』

  
 見学料は100円也。
 「萩市文化財施設1日券」が使えるので、これで入場した。


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↑木戸孝允旧宅 入口


20130501_p5012083r
↑木戸孝允旧宅前の江戸屋横町

20130502_p5022307r
↑木戸孝允旧宅の概要
  一部重複するが、以下の説明書きがある。
  『木戸孝允は天保4年(1833)にこの家に生まれ、嘉永5年(1852)に20歳で江戸に出るまでここで暮らしました。

   木戸孝允の生まれた部屋や勉強部屋、庭園など、その当時のままに残っています。』



20130502_p5022310r
↑已後而死

  『木戸孝允(桂小五郎)の落書き

   これは、2階の桁(けた)に書かれていたものですが、今回の修理で材木の取り替えを行った際、落書きの部分だけ保存したものです。

   書かれている文字は、「已後而死」(死而後已(ししてのちやむ) 死ぬまで努力を続ける。)の四文字で、「諸葛孔明」に出てくる言葉です。

   吉田松陰の「士規七則」の七則目にも使われています。

   いつごろ書かれたものなのかは不明です。』

  ということなのですが。

  写真を見てもよく分からないですよね。実物を見ても、ごく薄く文字が見えるだけだったので、写真でどれだけ写るか疑問だったのですが、今見ても、どこに文字があるのか、判別不能です(^^;。 もう少しクローズアップできるレンズ(またはカメラ)を持っていればよかったんですが…。


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↑木戸孝允旧宅内に飾られていた、在りし日の萩城。これは、萩城址の説明書きで使われていた写真と同一のもの。
第120段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (15) 参照)

(つづく)

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2013年7月12日 (金)

第124段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (19)~旧久保田家住宅

 萩城城下町に着いた。

 昨日(5/1)バイクを停めた場所 (
第103段:山口県ツーリング記(2013/5/1) (12) の写真参照)と同じところにバイクを停める。

 あとは徒歩による散策だ。

  “旧久保田家住宅 ”は、呉服町通り沿いの菊屋横町との交差辺り、第103段:山口県ツーリング記(2013/5/1) (12)  で出てきた菊谷家住宅のちょうど対面にある。


 入場料は、100円也。
 しかし、「萩市文化財施設1日間」が使えるので、それで入場した。

 入口のところにある説明書きには以下のような記述がある。

 『旧久保田家住宅
  
  呉服商・酒造業を営んでいた久保田家は、主屋、門、塀、離れが旧御成道(きゅうおなりみち)に面し、菊谷家と対峙するかのように立ち並んでいる。

  両家の主屋同士が向かい合い、立ちの低い主屋に対し、旧久保田家の主屋は、屋根裏に物置や使用人の寝間を設けた「つし二階」を持ち、立ちが高く、両者の対比は、それぞれの建物が建てられた時代的特色をよく表している。

  幕末から明治維新にかけての建物として、意匠・構造・技術に優れ、酒造業で繁栄した往事の状況も良く伝えており、史跡萩城城下町を構成する極めて重要な建物である。』

(つづく)



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↑旧久保田家住宅の入口

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↑久保田家住宅内部。人形がたくさん飾られていた。


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2013年7月11日 (木)

第123段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (18)~指月公園

 指月(しづき)山の詰丸(つめまる)跡にいる間、誰も登ってこなかった。

 せめて見晴らし台とかがあって、展望がきけば、良かったのだけど。

 さて、もと来た道を下る。

 下り終わったところで、太陽がまぶしく、サングラスをしようとしたところ、

 『ない!』

 どうやら山に落としてきたらしい。

 仕様がない。もう一度山に登る。さすがに2回目となると、きつい。
 登る途中と詰丸跡を一通り探したが、サングラスは見つからなかった。どこで落としたか分からない。

 仕方なく、下山する。

 萩城址を出る前に、綺麗な藤の花が咲いているところがあったので、写真に収めた。


20130502_p5022291r
↑指月公園に咲く藤の花

20130502_p5022295r
↑同上

 山を2往復したので、時間を使いすぎた。現在15:39。
 バイクのところにもサングラスは忘れてなかった。あきらめるしかない。

 さてと。もう一度、萩城城下町を見に行きますか。昨日は、短時間散策しただけだから。

  “萩市文化財施設1日券 ”もあることだし。(つづく)

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2013年7月10日 (水)

第122段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (17)~詰丸跡

 さて。指月山(しづきやま)山頂の詰丸(つめまる)跡には、以下の説明書きの看板がある。

 『萩城要害跡(はぎじょうようがいあと)

   ここ、指月山の山頂(標高143m)は、要害または詰丸と呼ばれ、戦時に籠城するための、まさに最後の砦であった。

   要害は周囲を石垣と土塀でとり囲み、要所には矢倉を配置していた。

   平時には眺望の利く大小様々な矢倉から陸地と海上を監視した。矢倉内には緊急にに備え、武器類も配備されていたようである。

   矢倉門である要害門矢倉を抜けると、二の丸(東西十九間…37.4m。南北二十間…39.4m)が広がる。

   建物は現存しないが、二の丸には監視役の執務場所である要害番所と宿所である居小屋(いごや)が存在した。



   さらに一段高くなった東側には本丸(東西二十四間…47.3m。南北二十間…39.4m)があった。

   本丸には天守が存在したという記録はないが、藩主が要害登山時に儀礼空間や酒肴の場として用いた茶屋が建っていた。

   二の丸と本丸の東端には裏門となる埋門があった。

   なお、鬼門の方角にあたる北国矢倉の石垣は北東隅を欠いた石積みとなっており、興味深い。


   この他にも飲料や消火用の貯水施設であった用水や池、石垣石材を調達した石切場などが残っており、要害の機能や築城過程の一端をうかがい知ることができる。』

(つづく)


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↑山頂にある説明書き

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↑指月山より萩市方面を見る

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↑石切場の跡。くさびを打った跡が生々しい。

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↑埋門付近


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2013年7月 9日 (火)

第121段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (16)~詰丸跡

 旧天守閣跡を見たあと指月(しずき)山に登ってみることにした。

 標高は143m。

 標高はそれほど高くない。というより、山としては低い。だが、登山道は意外と急峻だ。

 15分くらいかけて登ると、石垣と塀が見える。

 ここには『詰丸(つめまる)』があったらしい。

 山頂の周りは木に覆われていて、展望がきかない。

 だが、その『詰丸』があれば、話は別で遠くまで見渡せたことだろう。

 山頂に説明書きがあるのだが、長くなるので、また次回。(つづく)



20130502_p5022259r

↑15分くらい急峻な山道を登るとようやく詰め丸への入口が見えた。

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↑『萩城詰丸跡』の碑がある。

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↑詰丸跡に入って、振り返って壁を見る。狙撃用?の四角い穴が3つ見える。

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↑詰丸跡。木に覆われている。

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↑  『用水槽』と書いてある。


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2013年7月 8日 (月)

第120段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (15)~萩城天守閣跡

 萩城址は、現在指月(しづき)公園として整備されている。

 中に入るには、拝観料が必要だ。\210也。

 旧本丸跡の石塁近くに、解体される前の萩城を移した写真が説明書きと共にあった。

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↑かつての萩城を写した写真
 (参考: 
第125段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (20) にもう少し大きな萩城の写真(同じもの)がある。)

 天守閣跡に行ってみよう。


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↑萩城天守閣跡

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↑天守閣跡からの眺め(西方面)

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↑天守閣跡からの眺め(南西方面)

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↑天守閣跡からの眺め(東方面)

(つづく)

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2013年7月 7日 (日)

第119段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (14)~萩城跡

第118段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (13) の  『旧厚狭毛利家萩屋敷長屋』を見学したあと、バイクはそのままに萩城址へ行く。歩いてすぐだ。

 
 ということで、いつものように説明書きを引用しよう。

 『国指定史跡 萩城址

  萩城は関ヶ原の役後 毛利輝元が慶長九年(1604)築城に着手し四年後の同十三年(1608)に至って完成したものである。

  萩市街の西北隅、指月(しづき)山(標高143m)の麓に位置し 山名をとって指月城とも呼ばれた。

  山麓の平城と頂上の山城とを併せた平山城である。

  当時輝元は隠居していたがその子、初代藩主秀就が幼少なため、築城後も政務を執っていた。

  以後代を重ねること、十三代敬親に至って 幕末多端の国事を処理するに不便なため文久三年(1863)四月山口に移った。

  ついで明治七年(1874) 建物のすべてが解体された。

  本丸には高さ14.5mの五層の天守閣があったが、今はその台座のみ残っている。

  周囲には石塁を築き内部には藩主の居館ならびに藩役所と付属建物があった。

  この城は259年間防長両国政治の中心であり明治維新に大きな役割を果たした重要拠点でもあった。』


  それにしても。
  説明書きには、明治七年(1874)に城は解体された、とある。

  なぜ?
  なぜ、解体する必要があったのだろう。

  太平洋戦争とかの空襲で焼かれた、とかいうならあきらめもつくけど。

  今でも残しておけば、貴重な観光資源だったのに。昔の人は、そこまで考えてないんだろうけど。(つづく)

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↑萩城址

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↑中央左奥の石塁の上に萩城が建っていた。

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2013年7月 6日 (土)

第118段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (13)~旧厚狭毛利家萩屋敷長屋

 さて、バイクに乗って萩城址の方へ移動しよう。

 萩城址近くの『旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(きゅう あさもうりけ はぎやしき ながや)』の前は、萩史料館と萩城址へ向かう観光客用の駐車場になっている。その隣に観光センター(土産物兼お食事処)があり、そこの駐車場にバイクを停めさせてもらう。

 萩城址を見る前に、上述の長屋を見ておこう。
 
 ここの拝観も有料だ(\100也)。

 ただし、 “萩市文化財施設1日券 ”を使うことができる。口羽家住宅を見るときに購入していたので、これで入る。

 
 でも、なんか様子が変だ。ガスボンベなどを持ち込んできたり、テントを立てていたり。どうやら、明日(5月3日)お茶会があるらしい。

 さて。
 説明書きには、以下のように書いてある。

 『旧厚狭毛利家萩屋敷長屋 附(つけたり) 棟札(むねふだ)1枚

 
  厚狭毛利家は、毛利元就の5男元秋(もとあき)を始祖とする毛利氏一門で、厚狭郡厚狭(現山陽小野田市)に知行地(ちぎょうち)(8,370石)をもっていたのでこのように呼ばれた。

  萩の屋敷は萩城大手門の南100mの要地に位置し、面積約15,500㎡の広大なものであった。

  棟札(むねふだ)によるとこの長屋は10代元美の時、安政3年(1856)に建てられたもので、桁行 51.4m、梁間 5.0mの長大な構造で、現在萩に残っている武家屋敷の中で最も大きい。

  屋根は入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺(ほんかわらぶき)、南面は廂構桟瓦葺(ひさしがまえさんかわらぶき)で、妻飾りは木連格子、南に向かって玄関および濡れ縁を設け、障子を立てて開放的に作られている。手法の特に目立つものはないが、建築年代がはっきりした貴重な建物である。』

(つづく)


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↑旧厚狭毛利家萩屋敷長屋 外観

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↑同 内部

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2013年7月 5日 (金)

第117段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (12)~萩市の景観

 ようやくバイクのところの戻ってきた。現在13:07。

 それにしても暑い。木陰の下に移動して、手持ちのパンと野菜ジュースで腹ごしらえした。

 バイクは萩市立西中学校のすぐそばに停めていた。
 ところで、その萩市立西中学校を囲んでいる壁を見ると、白壁に瓦葺き。
 こういうところも、付近の景観に合わせているのだろう。
 このような市側の姿勢には好感が持てる。
 ごく普通のフェンスだったら、やっぱり周りとマッチしないからね。(つづく) 


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↑萩市立西中学校。敷地を囲む壁が、白壁に瓦葺き。周りの景観に配慮している。

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2013年7月 4日 (木)

第116段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (11)~口羽家住宅

 堀内鍵曲(ほりうちかいまがり)のさらにその先に進むと、『口羽家(くちばけ)住宅』というのがある。

 その外壁は “旧児玉家長屋門”と同じ、白壁。腰下はなまこ壁。いかにも武家屋敷という感じだ。

 中を見学してみよう。100円の拝観料が必要だが、萩市文化財施設1日券にすると、9つの施設を見られるというので、こちらを購入した。\300也。

 例によって、説明書きを引用しよう。

  『口羽家住宅 2棟(主屋・表門)

  口羽家は、萩藩の寄組士(1,018石余)で代々萩城三の丸に住んだ。大身(だいしん)の武士の居住地区であった堀内地区に現在も旧藩政時代そのままの姿をとどめている。

  表門は萩に現存するものでは最大の長屋門で、片潜門(かたくぐりもん)の左に門番所を設けている。

  また主屋は東面切妻造り、西面入母屋(いりもや)造り桟瓦葺き(さんかわらぶき)で東面に入母屋造りの突出部を設けた形式からなっている。

  こうした門と住宅がセットで残っているのは珍しく、武家屋敷の一違例として価値がある。建築年代はいずれも18世紀後半から19世紀初めのものと思われる。』


 この口羽家住宅の珍しいところは、「相の間(あいのま」)という空間。別名 “武者隠し”。

 来客時、主人を守るため、家来がここに潜んだという。

 その「相の間」の壁には、曲者を捕らえるための武器も飾られていた。

 「袖がらみ」は、文字通り、着物の袖に巻き付けて、曲者の動きを封じる武器。このような武器が残っているのも珍しいという。

 また、座敷からは、庭をへだてて、橋本川や対岸の玉江(たまえ)の風景が楽しめる風光明媚な場所だ。(つづく)


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↑口羽家住宅の外壁。白壁となまこ壁。空の青とのコントラストがなかなか綺麗。

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↑「相の間」
  ふすまを閉めてしまえば、客人は、ふすまの向こうは部屋だと思うだろう、という仕組み。ここに家来が潜む。
  昔、来客時にそんな緊張する場面があったのだろうか?


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↑口羽家所有の武器の数々。下から二つめが「袖がらみ」。先端の金具部分は取り外せるようになっていて、その下には刃長約3寸(約9cm)の槍が仕込まれている。口羽家の門番が使用したものと考えられ、口羽家の警備が厳重であったことが想像される。

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↑座敷からの風景

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2013年7月 3日 (水)

第115段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (10)~堀内鍵曲

 ようやく堀内鍵曲(ほりうちかいまがり)にやって来た。
 
 鍵曲については、
第111段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (6) でも説明している。一部説明内容が重複するが、説明書きを引用しよう。

 『堀内鍵曲

  「鍵曲」は、敵の侵入や攻撃に備えるため、左右が高い土塀で囲まれた、見通しきかない鍵手形(かぎのてがた)の道路である。

  藩政時代、このあたりには重臣たちの邸宅が建ち並んでいたが、明治時代以降、ほとんどが解体され、夏みかんの畑になった。

  なお、この堀内地区は、平安古(ひやこ)地区とともに、国の「重要伝統的建造物保存地区」に選定されている。』

(つづく)


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↑堀内鍵曲

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↑左の道路を進むと…

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↑その先は左に折れ、このような景色となっている。


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2013年7月 2日 (火)

第114段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (9)~旧明倫館跡

 旧児玉家長屋門から堀内鍵曲(ほりうちかいまがり)に向かう途中、偶然、旧明倫館跡というのを見つけた。

 例によって、説明書きがある。

 『旧明倫館跡(堀内)

  ここは、萩城三の丸の南側に創建された萩藩校明倫館の跡地です。

  藩校明倫館は、萩藩五代藩主毛利吉元(よしもと)が享保3年(1718)に創建し、全敷地は940坪ありました。

  江戸時代に全国で三百近くあった藩校のうちでも比較的早い時期にできており、設備、教育内容共に全国でも有数の藩校でした。

  嘉永2年(1849)に萩城下の中央の江向(えむかい)の地に移されるまでの百三十年間にわたって、藩政を担う藩士育成のための教育が行われていました。』

(つづく)


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↑キュウ明倫館跡 (キュウ は  “くさかんむり ” に  “ふるとり(隹) ” に  “旧 ” )と碑に刻まれている。

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↑建物はなく、夏みかんが植えられていた。

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↑南国らしい風景だ。

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2013年7月 1日 (月)

第113段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (8)~旧児玉家長屋

第112段:山口県ツーリング記(2013/5/2) (7) の中で出てきた “旧児玉家長屋門”は平安橋を渡って、右に進むとすぐだ。

 例によって、説明書きがある。

 『旧児玉家長屋

  萩城三の丸の平安古総門(ひやこそうもん)に隣接していた児玉家は、萩藩寄組(よりぐみ)に属し 2243石余の大身(だいしん)武士であった。

 幕末の萩城下町絵図(はぎじょうかまちえず)によると同家の表門は平安古総門に面して南向きであったとみられ、この長屋は屋敷の西側道路に沿って建てられたものである。

  建物は木造平屋建て、桁行 32.67m、梁間 4.59m、屋根は桟瓦葺き(さんかわらぶき)で、入母屋(いりもや)造り、道路沿いの外廻り壁は白壁、腰はなまこ壁とし、出格子(でごうし)が一ヶ所設けている。

  国選定重要伝統的建造物保存地区内に含まれ、よく旧態を保っている。』

 ここは無料で内部も見学できた。(つづく)


20130502_p5022191r
↑旧児玉家長屋門
  白壁が美しい。 これぞ、“萩”という感じの建物だけど。。。
  何とも、電線と電柱が無粋である。


20130502_p5022186r
↑長屋門を内側から撮影。

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